土岐市

【流浪の城巡り】妻木城(岐阜城土岐市)と妻木氏 ~妻木氏代々の城、明智氏~ ※2023年2月更新

Pocket

グルファビ

こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は岐阜城土岐市の妻木城の紹介をしたいと思います

グルファビの評価

総合評価 
☆☆☆☆★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆☆☆★ ☆☆☆☆★ ☆☆☆☆★ ☆☆★★★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★
グルファビ

岐阜県土岐市にある城跡です

主郭は山頂にあって東側に登り口が設けられています。道標もしっかりしているので歩きやすく、整備されており遺構もしっかり残っています。

城の概要

土岐市南部の標高409mの城山山頂に築かれた山城。妻木城は明智氏の所領であったが、後には明智氏一族とされる妻木氏の居城となって、次第に整備されていった。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、織部焼、志野焼などに代表される現在の美濃焼の基礎を作った領主として知られている。

城は山頂を中心に約200メートル四方の範囲に、曲輪、石垣、土塁などの遺構が残されています。

城の歴史

1339年、土岐頼貞の孫である明智頼重が家臣育成の訓練場のような意味合いで築城したともされるが、諸説ある。戦国時代辺りに土岐氏が衰退してからは、一族の明智氏の所領になった後、さらにその一族とされる妻木氏の居城となった。

1582年、本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際、第12代城主の妻木広忠は明智軍に属して敗北し自刃したため、嫡男の妻木頼忠が跡を継いだ。その頃、可児郡の金山城を本拠とする森長可が土岐郡や恵那郡内の反抗勢力の掃討を開始した。長可は手始めに高山城主平井頼母に使者を送り、城を明け渡すよう要求したが、頼母がこれに応じなかったために攻めて自刃に追いこみ、その後家臣の肥田氏を入城させた。妻木城にも従うよう使者が来たが、頼忠が拒否したことから長可は城を攻めた。頼忠は城兵を集め奮戦したが、勝てる見込みがなかったので、和議にもちこみ長可に臣従した。この戦は、妻木氏が明智側の勢力である遠山氏らと共に、信長の重臣であった森氏が拠る金山城の勢力を排除しようと画策した事が原因であるといわれている。

1584年、小牧・長久手の戦いの際に頼忠は森長可の家臣だったため豊臣秀吉側についた。愛知県春日井市と岐阜県多治見市の境にある内津峠に布陣したが、小規模な合戦により麓にあった町は焼失したという。

1600年、関ヶ原の戦いの際には徳川家康側についた。頼忠は東濃地方を守るよう命じられ、父である妻木貞徳と共に西軍側の岩村城主・田丸直昌と戦った。田丸直昌の家臣である田丸主水が妻木城から近い所に土岐砦を築き、妻木方諸将の行動を封じ鎮圧しようと試みたため、頼忠は尾張の岩崎城主である丹羽氏次らを誘って田丸領の各所に放火して対抗し、高山城の城攻めを図った。しかし田丸主水の軍は高山城に火を放って放棄し、二手に別れた。主水を含む主力部隊は岩村城へ退却し、別働隊は土岐砦へ退却して立て籠もった。頼忠は田丸軍別働隊の退路を完全に遮断するため現在の瑞浪市寺河戸町付近に砦を築き、土岐砦を落とした。

また、田丸領内にある明知城と小里城は元々は遠山氏の支城と小里氏の居城であったが、田丸氏が奪って岩村城の支城とし、城番を常駐させていた。かつて城主であった遠山利景と小里光親は頼忠らの支援を受けて明知城と小里城の攻撃を開始し、その日のうちに明知城を、翌日に小里城を奪回することに成功した。これによって両名は城に戻ることができたので、その後頼忠は両名と共に田丸直昌の拠る岩村城を攻めようとした。しかし、岩村城は難攻不落と名高い城だったために苦戦を強いられた。妻木・遠山・小里連合軍と田丸軍はその後も睨み合っていたが、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わったことで城主の田丸直昌も東軍の軍門に降り、岩村城方を指揮していた田丸主水も本来の城主である遠山利景に城を明け渡した。

1601年、関ヶ原の戦いの際の戦功により頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられた。頼忠は領地経営において、山の上の城では生活が不便であるため、城のある山の北側の山麓に屋敷を築いて住み始めた。元和年間(1615年 – 1624年)頃にはこの城は放棄されたとみえ、山麓にある妻木城士屋敷が政庁となっていた。

妻木氏

妻木氏(つまきし)は、美濃源氏土岐氏の庶流の明智氏の一族。美濃土岐郡の国人。

『寛永系図』によると、土岐光定の9世の孫である彦九郎弘定がその根拠地であった妻木郷(現・岐阜県土岐市妻木町)から妻木氏を称したことに始まるという。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、前哨戦の東濃の戦いで戦功を挙げた妻木貞徳の嫡男の妻木頼忠は江戸幕府成立後は交代寄合格の旗本となり、7,500石を領し、妻木城を廃して、城の麓に妻木陣屋(妻木城士屋敷)を築き知行所を支配した。

元和9年(1623年)に頼忠が没し妻木頼利が家督を継いだ。
承応元年(1652年)には頼利の子の妻木頼次が家督を継いだ。
この時、兄弟の不和により妻木騒動が起きて、頼次は弟の妻木幸広に、土岐郡大富村500石を分知し、7,000石となった。
万治元年(1658年)頼次が没すると嗣子が無く、妻木本家(妻木藤右衛門家)は断絶し改易となり、妻木陣屋も廃された。

同じ土岐氏の庶流である明智氏とは深い関係があったとされ、明智氏の庶流であるともされる。

明智光秀の正室煕子は妻木氏の出身である。

現在の状態

妻木城の入り口です
看板があるのでわかりやすいです
道中
細いですが舗装されているので問題ないかと
城の入り口・広場
登城口
案内板です
登城道中です
日暮れ時に訪れたためブレている写真が多くすみません
切岸
登城道中
木製の階段があります
曲輪Ⅲ
三の丸?
絶景です
景色の説明版
本丸への道
本丸近辺
本丸
石垣があります
本丸から曲輪Ⅱ方面

アクセス

住所

〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町

入口までのルート

県道19号の道中にあります

ゴルフ場に向かう方向と城への向かう道に別れています

城を一望できる場所

ビューポイント

城に関するおススメ書籍

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

戦国美濃の城と都市 (城館研究叢書 3) [ 内堀信雄 ]
価格:6600円(税込、送料無料) (2023/2/26時点)


ABOUT ME
yabouroku
グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」