【流浪の城巡り】小林城(宮崎県小林市)と米良重方 ~伊東氏が築城、米良氏の城~ ※2023年2月更新

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こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は宮崎県小林市の小林城の紹介をしたいと思います

グルファビの評価

総合評価 
☆☆☆★★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆☆★★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★ ☆☆★★★ ☆☆☆★★ ☆☆★★★
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宮崎県小林市にある城跡です

小規模ながら難攻不落具合がわかるお城です。
現在は私有地であり、指標、本丸跡などの標柱等はあるが、ほとんど雑木林になっています。

城の概要

永禄9年(1566年)に日向の伊東義祐が、薩摩の島津氏への抑えの城として、またその島津の飯野城攻撃の前線基地として、須木城主・米良重方に命じて作らせ、城主にも任命した。

西方、北方、東方を岩瀬川(現・石氷川)が囲むように流れ天然の堀となり、南方はシラス土壌による断崖絶壁で容易に登れないという、天然の要害を利用した難攻不落の城。

当初は三ツ山城(みつやまじょう)、もしくは三ノ山城(みのやまじょう)と呼ばれていたが、島津氏の城に帰すると 島津義弘により、人心一新のためと、北原氏が所有していたもう一つの三ツ山城(小林市・細野)との混同を避ける意味で、小林村にあったことから小林城と名を改められた。

現在は私有地であり、指標、本丸跡などの標柱等はあるが、ほとんど雑木林になっている。

城の歴史


1566年、伊藤氏家臣、米良重方により築城
※応永年間(1394年〜1428年)に北原氏によって築かれたという説もある。

小林城の築城が開始されてから約半年後の1566年10月26日(永禄10年(1567年)10月25日という説もあり)に、島津義久・島津義弘・島津歳久が城の完成前に20,000余の兵を動員して攻めてくる。義久は大手口、義弘は水ノ手口、歳久は窪谷口のある南方から攻めた。伊東軍は菱刈氏よりこの情報を得ていたが、その菱刈からの使者が帰途に就く前に攻め入られている。島津軍に対し伊東軍の有志は打って出るが敗退、籠城戦へと移行していく。 結果、大激戦となり、城の内堀と外堀が死体で埋まり、また島津方が城を焼失させる作戦に切り替えたため城内の牛馬200頭が炎に焼かれて死んだという。やがて城は本丸を残すのみとなるが、重方は弟の米良矩重と共に奮戦、やがて稲荷山に須木城からの援軍が布陣し城兵と共に島津軍を挟撃、阿多中務、末弘又左衛門尉、椎原助十郎ら島津軍の主だった将が悉く討ち取られ、義弘も重傷を負い島津軍は敗北・退却した。伊東軍の激しい抵抗により小林城は守られた。

なお、このときの戦死者数などは不明であるが相当数の死傷者を出したようであり、島津忠良(日新斎)と島津貴久の両名は、戦死者を弔うために冒頭に「南・無・阿・弥・陀・佛」を冠した和歌を詠じている。

1572年5月3日、翌日の加久藤城攻略のための伊東軍の出立場所となった(木崎原の戦い)。この戦いで小林城主であった米良重方は戦死している。また、この戦いで亡くなっていった伊東軍の各将兵らを供養するため、伊東氏が建立した伊東塚へは、小林城から歩いて行けるほど比較的近い場所に建立されている。

1576年8月24日、兄の死後に城主を務めていた米良矩重が島津軍に寝返る。小林城は同じく矩重が治めていた須木城と共に島津氏の城となり鎌田政年が差遣されている。同28日に、高原城を下した義久らの将兵が入城、戦勝祝賀が催されている。

1587年、の豊臣秀吉による九州征伐の際は、豊臣勢を迎え撃つべく川上忠兄が小林城に籠って迎撃準備を図っている。結局戦になる前に島津氏は降伏。

元和元年(1615年)の一国一城令により廃城。

米良 重方

米良 重方(めら しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。三ツ山地頭。知勇兼備の将と謳われた。

須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職を務める家系。薩摩国島津氏と接する小林村(現・宮崎県小林市真方)に小林城を作るよう命じられ、かつその城主にも任命され須木城と小林城を領有することになる。

1566年10月26日(1567年10月25日説も)、築城中の小林城に島津義久・義弘・歳久が攻め寄せた際、重方は弟・矩重と共に奮戦。須木城からの援軍を得て、多くの島津軍の将兵を討ち取り、義弘は重傷を負い島津軍は放逐された。
1568年、飫肥での戦い(第九飫肥役)において、伊東方の代表として島津方の北郷忠顕と戦後交渉を行い、島津軍の撤退と飫肥領の割譲を実現させる。この頃に小林城の近くの野首城も賜る。
1572年5月4日、木崎原の戦いに出陣。加久藤城攻めに失敗した伊東軍の殿軍となり戦死。首は、義弘による首実検の後、米良家の菩提寺である一麟寺に送り届けられた。

現在の状態

城に入る前の広場の様な場所
こちらに車も止めた
説明版
城への入り口
道中はそこそこ整備されています
ブレブレですが道中
堀切が道になっています
本丸跡
本丸
本丸近辺
城からの眺め
城への入り口の道路
城前の広場

アクセス

住所

〒886-0007 宮崎県小林市真方773

入口までのルート

国道265から入りすぐそばです

城を一望できる場所

ビューポイント

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yabouroku
グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」