【流浪の城巡り】六郷城(秋田県大仙市)と六郷氏・六郷政乗 ~戦国の荒波を乗り切った六郷氏の本拠~ ※2023年4月更新

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こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は秋田県大仙市の六郷城の紹介をしたいと思います

グルファビの評価

総合評価 
☆☆★★★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆★★★ ☆☆★★★ ☆☆☆★★ ☆☆★★★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★

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秋田県大仙市にある城跡です。

現在の遺構はほとんど残っておらず、田岡神社という神社が建っています。説明板等は充実しており、堀跡なども残っています。

城の概要

城は南に大曲街道、東に坪楯街道が通る交通の要衝に築かれている。 城は、北に稲荷神社、熱田大神宮を祀り、西中央に本丸、東南に二の丸を配していた。

現在は本丸に田岡神社が祀られており石碑が建っている。周囲には堀跡のような窪地がある。この周辺に二の丸、内濠、外濠などの標柱が建てられている。

城の歴史

1559年、六郷弾正道行によって築かれたと云われる。 六郷氏は藤原南家二階堂行光の後裔と伝えられる。

戦国時代周囲には戸沢、小野寺、安東、武藤といった勢力の中、小さいながらも国人として独自の勢力を持ち、六郷衆と呼ばれる勢力を形成していた。

1590年、豊臣秀吉に従って検地をうけ、四千五百十八石を安堵された。

1600年、関ヶ原合戦では徳川家康の命に従って山形城主最上義光の軍勢に加わった。関ヶ原合戦が終結すると上杉氏は最上領から引き上げ、孤立した小野寺氏に最上氏とともに攻め入った。

1602年、六郷正乗は関ヶ原合戦の功によって常陸国府中一万石で転封となると、出羽国秋田へ入部した佐竹氏の所領となり、佐竹義宣の父義重の隠居城となった。

1612年、佐竹義重は鷹狩りの最中落馬して死去したと伝えられ、その後廃城となった。

六郷氏と六郷政乗

六郷氏(ろくごうし)は、日本の氏族。武蔵江戸氏流と藤原南家為憲流工藤氏流がある。

工藤氏流六郷氏は、出羽国仙北郡六郷邑(現・秋田県仙北郡美郷町六郷)より興り、同地を本拠とした武家。本姓は藤原朝臣。二階堂行綱の弟・行忠の系統であり、二階堂晴泰(はるやす)は足利義晴から偏諱を受けてその名を称し、その孫・道行の代に六郷と称した。 江戸時代には出羽本荘藩2万石の外様大名として続いた。

最後の本庄藩主六郷政鑑は戊辰戦争において官軍に参加し秋田藩とともに庄内藩征討に当たり、その戦功で賞典禄1万石を下賜された。政鑑は1869年6月19日に版籍奉還で本庄藩知事に任じられたのを経て、1871年7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた。

1869年6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると六郷家も大名家として華族に列した。1884年7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として政鑑が子爵に列せられた。

政鑑の子政賢は田中製鉄所取締役を務めた他、貴族院の子爵議員にも当選して務めた。

その子白雨の代に六郷子爵家の邸宅は東京市世田谷区池尻町にあった。白雨は1941年16年7月に爵位を返上した。

六郷政乗

1567年、六郷道行の長男として誕生した。

六郷道行の事績としては、六郷城下町を建設・整備に力のあった人物と考えられる。天正以前に六郷館を中心に工事を着々と進め、河隈川(平鹿郡角間川)・大保(仙北郡藤木)の船場支配権を確保し、町割をおこなって室町・蔵町・厩町・立町・大町・鋳物師町・中町・肴町などを建設して商業地六郷の基礎をつくった。
伊達政宗の側室新造の方(猫御前)は一説では六郷道行の娘ともいわれる


出羽横手城に本拠をおく小野寺義道は、出羽南部において最上氏と伊達氏が対立抗争を展開している隙を狙い、たびたび山形県内陸北部に攻め入っているが、1586年、義道が最上領に侵攻したとき、政乗は本堂氏・久米氏・金沢氏らと共に小野寺軍に加わっている。また、1587年にも小野寺配下の山北七人衆の一人として安東実季(秋田実季)と戦った。

1589年に安東氏の内訌として起こった湊合戦では、小野寺義道・南部信直・戸沢盛安が安東通季(豊島通季)を支援したのに対し、六郷政乗は実季の要請に協力して秋田側で出陣した。それに1588年に最上義光が由利郡赤尾津の国人・小介川治部に送った書状では、抗争中の六郷・小野寺両氏に講和を進言していることから、1588年から1589年にかけての時期に六郷政乗が小野寺氏から自立して独自の動きを強めている様相がうかがえる。

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣したことで秀吉政権への臣従が認められ、出羽国内の所領4,500余石が安堵された。太閤蔵入地は6,276石にのぼる。

六郷領の知行高は1万3,800石余であるから、蔵入地を差し引いても六郷氏安堵の所領はいかにも少なくみえるが、これは久米氏・金沢氏・神尾町氏・戸蒔氏などの一統衆のそれぞれに安堵状が給付されたからである。また、六郷城周囲や雄物川沿岸の肥沃な一帯は蔵入地として没収されたものの、河隈川(平鹿郡角間川)・大保(仙北郡藤木)における船場の支配権は従前のとおり認められたため、領内経済の運営には大きな支障を及ぼさなかった。六郷周辺の「中郡」と呼ばれた地域の米穀・木材などの物資はこれらの船場から雄物川舟運を経て土崎湊に運ばれ、逆に京畿・西国や北陸地方の品々が領内に持ち込まれる仕組みが出来あがっていた。問丸にかかわる課役や関銭・船役・船手銭を租税として徴収していた。

1592年、文禄の役では肥前国名護屋城に在陣している。ただし、実際の朝鮮への渡海はなかった。

政乗は、城下町六郷の建設にも尽力した。既に父道行の代から建設は進み、室町・蔵町・厩町(馬町)・立町・大町・裏町・鋳物師町・中町・肴町が早い段階から1つの道路で結ばれていた。文禄年間には雑仕町・古町・新町・籠町・米町・上町・寺町などが新たに建設されて町域を広げた。城下町を中心に街道がつくられ、紫草・楮・漆・木蝋など商品作物を集めて人や物資が集まり、商人からは町役・土倉役・酒屋役などの営業税を徴収した。こうして、六郷を出羽北半屈指の城下町に成長させている。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍に与した小野寺氏を攻撃した。戦後の1602年、その功績により常陸府中1万石の所領を加増移封された。1614年からの大坂の陣にも参加し戦功を挙げた。1623年、大大名の最上氏が改易され広く空いた旧最上領内の本荘2万石に加増移封され、本荘藩の藩祖となった。

1634年4月28日、本荘にて没した。享年68。家督は長男の政勝が継いだ。

三男の政直は200俵を与えられて旗本に列し、四男の政秀の子孫は後に600石の旗本となっている。

現在の状態

アクセス

住所

〒019-1404 秋田県仙北郡美郷町六郷古館

入口までのルート

国道13号を北に入ってすぐにあります

城を一望できる場所

ビューポイント

平城で遺構もほとんどないので雰囲気を感じられるような箇所は中々ないと思います

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