【流浪の城巡り】白旗城(栃木県大田原市)の紹介~那須七騎・大関氏の居城でもあった城~ ※2022年3月更新

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グルファビ

こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです。

今回は宮城県亘理町の亘理城(臥牛城)の紹介をしたいと思います。

※この記事は筆者自身が訪れた城を説明、紹介する記事です。


1.グルファビの評価

総合評価 ☆☆★★★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆☆★★ ☆☆☆☆★ ☆☆★★★ ☆☆★★★ ☆☆☆☆★ ☆☆★★★
グルファビ

大田原市の中心付近にあります。
田園の中の小高い丘のような場所にあり眺めが良く戦国時代の雰囲気が良くわかると思います。
案内板があり以降も良く残っていますが、整備があまりされておらず…。城を隅々まで見るのは難しいと思います。
規模が大きく、さすがは那須七騎の筆頭格、大関市のお城です。

2.城の概要

白旗城は、応永年間に大関増清が築いた、山城那珂川の支流、湯坂川沿いの南北に連なる白旗丘陵の南部に築かれた山城。本城(本丸)や北城(二の丸)などの6つの曲輪が土塁や空堀によって区画されている。麓には東山道が通過しており、交通の要衝であった。

大関家は、那須家に属した武将集団、那須七騎の旗頭で、近世大名として安定する前の室町期まで、この城を拠点としていました。

白旗の地名は、源頼義が奥州の安倍頼時討伐の際、この地に白旗を翻して戦揃えをしたことに由来すると云われている。

3.城の歴史

白旗城の名は源頼義が阿部頼時を討伐に出かける際、この山頂に白幡をひるがえし、軍をそろえたことにはじまり、源義経も奥州の藤原秀衡のもとから、鎌倉の兄頼朝の旗上げに、はせ参じる時に、祖先の例にならってこの山に立ち寄ったといわれている。

応永年間(1394年~1428年)に大関増清によって築かれた。

大関増清が白旗城を築いて大関城より移ったが、その後も11代大関増雄の時に八幡館、12代大関宗増の時に大関城、13代増次の時には再び白旗城を改修して移るなど度々大関氏の居城となっていたようである。

大関宗増と福原資安は、主家那須氏の信頼の厚い大田原資清を陥れ1518年大田原氏を攻めてこれを敗った。資清は越前国の永平寺に落ち仏門に入ったが、1542年越前朝倉氏の支援を受けて大関増次(宗増の嫡子)の籠もる白旗城を奇襲し、増次は石井沢にて自刃して果てた。増次には嫡子なく大関城に隠棲していた父宗増は大田原氏と和睦し、大田原資清の長男高増を養子に迎えて大関氏の家督を継がせた。これにより、大関氏は事実上大田原氏に乗っ取られる形となった。

天正4年(1576年)十四代大関高増の時に黒羽城を築いて居城を移している。その後は廃城になったと思われる。

4.現在の状態

城の遠望です。城の雰囲気はよくわかりますね
駐車場もあります。
駐車場から道路を挟んで反対側に案内板があります。
説明版
城の脇には側道があります。
一番南から城に入ると何か石碑のようなものが
堀切と思われる。それがそのまま登城路になっている。
城の郭と思われる地形。
そのまま進もうとしたが藪に阻まれ断念。別ルートへ。
ちょっと北に上ると整備されている登城路が!
さっきよりは整備されておりまた右側に郭があります。
郭と堀切。ここは城の雰囲気が良くわかる整備具合です。
わかりづらいですが郭があります。
何かの記念碑。
記念碑脇に階段がありそこを登ると社が。雰囲気ありますね
郭と堀切。
さらに北に行くと別の登城路が。
案内板があり一番整備されています。
あ、城跡ではなく神社のようです。
当時の堀かはわかりませんが堀です。
さっきの案内板の脇の道。
登ると見晴らしの良い場所に出ます。
ここにも神社が
わかりづらいですが切岸のような地形。ここも城の1部だったのだろうか。

5.アクセス

住所

〒324-0243 栃木県大田原市余瀬

入口までのルート

赤いピンのある場所が駐車場なっており、その対面の道路に案内板や説明版があります。

城の脇の側道に面していくつかの登城口があります。

城を一望できる場所

ビューポイント
城の南側からが一番眺めが良いと思います。周りが田園で開けているおかげで城の地形が良くわかります。

白旗城に関するおススメ書籍


東国の戦国時代について記載されており、大関家の主家那須家の歴史についても記載されています。

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グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」