【流浪の城巡り】岩殿城(山梨県大月市)と甲斐小山田家・小山田信茂~武田の命運を決した甲斐屈指の名城~ ※2022年月更新

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こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は岩殿城の紹介をしたいと思います。

この記事は筆者自身が訪れた城を説明、紹介する記事です。

1.グルファビの評価

総合評価 ☆☆☆☆★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆☆☆★ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆★★ ☆☆☆☆★ ☆☆☆☆★ ☆☆☆☆☆

エグイです。
まずその城の威圧感に圧倒されること必至です。
山というか大岩の上に築かれたような感じです。
ただエグイのは城の存在感だけでなく登山道もです。その険しさ故か崩落部分も多く、無事な登山道もかなり険しいです。
武田家の命運を決めた城でもあり歴史的価値も大いにある城です

2.城の概要

独立峰の岩山・岩殿山(標高634m)の山上に築かれています。相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する。頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいる。大月市街地からも近く、大月駅からも間近にその姿を眺めることができる。

築城年代は定かではない。 また、築城者に関しても武田氏とも小山田氏ともいわれているが定かではない。

戦国時代には主に勢力下にありました。

3.城の歴史

築城時期は定かではない。九世紀末、天台宗の岩殿山円通寺として開山したのが岩殿山のはじまりという。

13世紀に入ると天台系聖護院末の修験道の場として栄えている。

16世紀になって大名の領国支配制が成立すると、郡内地方は甲斐守護・武田や郡内領の国衆・小山田氏の支配を受けるようになった。この頃には小なりとも拠点化されていたと考えられる。

岩殿城の築城時期は不明であるが、一説によると1532年、武田氏に被官していた小山田氏が相模・武蔵方面への守りとして城郭化したともいわれている。
『甲斐国志』では小山田氏の本拠である谷村館(都留市谷村)の詰城説を取っているが谷村館の詰城にしては距離が離れすぎており武田氏が北条氏への境目の城として築かれたともいわれている。

1509年、小山田氏は武田氏に対抗していたが武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入った。その後は武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、岩殿城は国境警備の役割を果たしていたと考えられている。

1565頃、小山田氏の家督を相続した小山田信茂(信有の孫)が谷村館から岩殿山城に居城を移したとされるが、居城は、信茂の時代にも引き続き谷村館で、岩殿山城はその出城だったとする説もある。(『勝山記』『妙法寺記』)

1582年3月、織田・徳川連合軍(それに加え北条軍)の武田領侵攻に際して、家臣の裏切りや相次ぐ敗戦で進退窮まった武田勝頼が小山田信茂の薦めに従い新府城を引き払い岩殿城へ向かうが、勝頼一行が郡内領へ向かう途中で信茂は勝頼から離反し、勝頼一行は天目山で自害した。小山田信茂は勝頼滅亡後に織田氏に出仕しているが、その土壇場の裏切りが信長の不興を買い甲斐善光寺において処刑され、郡内小山田氏は滅亡する。
1582年武田滅亡後、甲斐国の支配を任された(穴山領を除く)河尻秀隆の支配下に入る。この時、どの武将が岩殿城を支配していたかは定かではない。
1582年6月、本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生する。都留郡では本能寺の変が伝わると土豪や有力百姓などの「地衆」が蜂起し、甲斐国を統治していた織田家臣・河尻秀隆の家臣は追放された。こうした状況から、後北条氏では戒告の支配を目指し相模津久井城主・内藤綱秀が都留郡へ侵攻し、岩殿城を確保した。後北条氏はさらに都留郡一帯を制圧する。その後、徳川軍と北条軍が甲斐・信濃の各地で戦を行い、その後の講和により甲斐は徳川方の領土となりました。

その後江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定していたといわれ、江戸時代にも岩殿山城は要塞としての機能を保った。

4.甲斐小山田家と小山田信茂

甲斐小山田家

『甲斐国志』では小山田氏は武蔵国秩父平氏の末流とし、平重弘の次男有重、さらにその子の行平の流れを戦国期小山田氏の祖としている。甲斐の小山田氏とは同族とされるが、その経緯ははっきりしてはいない。
小山田氏は良くわかっていない部分も多く諸説あるが、甲斐小山田氏は、小山田有重の6男・小山田行幸が、都留郡の田原荘を知行して1192年から定住したのが始まりとされる

戦国期の甲斐では甲府盆地を戦国大名化した守護・武田氏が治めており、これに対し甲斐各地では有力国衆が台頭し、中でも河内地方では穴山氏が、郡内では小山田氏が台頭する。穴山・小山田両氏をはじめ甲斐の有力国衆は武田氏の家臣団に組み込まれるが、穴山・小山田両氏は河内・郡内領において独自の支配を展開した存在だった。

永正4年に甲斐守護・信縄が死去すると、信縄の子、武田信虎が家督を継承する。これに対して信虎と叔父の油川信恵・岩手縄美兄弟の間で抗争が発生し、駿河国の今川氏や相模国の後北条氏(伊勢氏)など対外勢力の動向が関係して戦乱状態が続いた。

小山田信長の姉妹は武田信昌に嫁ぎ、信恵・縄美兄弟の生母であるという。このため、信長の子、小山田弥太郎は信恵・縄美方に属する。1508年10月4日には信直・信恵間で合戦が起こり、信恵方は大敗し、信恵・縄美ほか多くが戦死した。弥太郎は報復のため国中へ侵攻し、同年12月5日の合戦で戦死したという。

弥太郎の次代は子息とも弟とされる越中守信有が継承し、以来小山田氏では弥三郎信有、出羽守信有と三代の当主が同じ実名「信有」を継承している。1509年にも信虎の郡内侵攻を受け、1510年春に小山田氏は武田方への従属を条件に和睦し、越中守信有は信虎の妹もしくは、娘を室に迎えている。

1515年10月17日には越中守信有が派遣したと見られている小山田大和守が駿河今川氏と結んだ西郡の国衆大井氏との合戦で戦死している。今川勢は籠坂峠を越えて郡内へも侵攻し、1516年末に小山田氏は駿河勢を撃退している。1518年5月に至り武田・今川両氏は和睦しているが、小山田氏は別個に今川氏と和睦している。

1519年に信虎は守護所を川田館から甲府へ移転し、新たに躑躅ヶ崎館を築造して城下町整備を行う。これに伴い家臣団も城下に集住し、小山田氏も甲府に屋敷を置き、越中守信有の正室も甲府へ移っている。1520年には郡内北部に猿橋(大月市)を架橋しており、この時点で小山田氏の支配が郡内北部にまで及んでいることが確認される。

1530年には本拠を中津森館からより発展性の見込める谷村へ移転し、城下町整備を行う。
1533年には甲府に屋敷を持ち武田への帰属を強めるが、外交関係などで一定の独立性は有していたといわれる。

このような形で徐々に武田家への従属を強めていった。

小山田信茂

郡内地方の国衆・小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれたとされる。祖母が武田信縄の娘かつ信虎の妹で、信玄の従甥に当たとされている。が、信茂の出自には不明な点が多く正しいことはあまりわかっていない。

1552年正月には父の出羽守信有が病死し、後は兄の弥三郎信有が家督を継ぐ。従来、弥三郎信有と信茂は同一人物とされていたが、『町田市史』において両人が別人である可能性が指摘され、高野山引導院供養帳により弥三郎信有は永禄8年に死去しており、信茂とは別人であることが判明した。

1553年9月、第一次川中島の戦いでは先陣を務めたと言われている。(兄信有とも)

永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には相模国後北条氏の「他国衆」として兄の弥三郎と並び「弥五郎」の名が記され、信茂に比定される可能性が考えられている。また、武田信玄の「御小姓衆」として「小山田弥五郎」の名を記し、250騎を率いたとしている。
つまりこの時期は半ば武田と北条に両属関係にあったと思われる。

永禄8年(1565年)に兄の弥三郎が病死したために家督を継いだ。

1567年8月7日には武田家における義信事件(嫡男義信の廃嫡事件)に際し信茂は起請文を記している。

1568年11年12月、武田氏と今川氏の同盟が断絶し、武田氏による今川領侵攻(駿河侵攻)が開始される。信茂は先陣を務め、駿河江尻(静岡県静岡市清水区)から上原(同市同区)に侵攻したという。1569年、今川領への侵攻は相模後北条氏との甲相同盟の断絶も招き、北条氏との抗争も発生する。信茂は駿河で合戦を続けていたとしているが、詳細な動向は不明。

1569年9月10月、信玄は後北条氏の本拠である相模小田原城を目指し上野より侵攻し、鉢形城を包囲、その後滝山城を目指す。それに際し信茂は別動隊を率い小仏峠より滝山城を目指し侵攻する。その際滝山城城主、北条氏輝が信茂の別動隊に対して家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守らに2000人の兵を与えて廿里砦に向かわせます。しかし当時軍勢を通ることは不可能と言われていた小仏峠から軍勢が進行してくるとは思わなかった北条方は廿里砦に碌な備えをしておらず信茂は北条の援軍が到着する前に廿里砦を陥落させます。1569年10月1日、廿里砦にて待ち伏せし、廿里砦が陥落しているとは知らない北条軍を完膚なきまでに叩きのめしました。
その後信茂は御嶽城・鉢形城を攻撃し、滝山城下に放火し郡内に帰国したとされ、三増峠の戦いには参加していない可能性も指摘されている。
この時の活躍により立場が確立し、武田信玄から絶対的な信頼を得、「弓矢の御談合七人衆」として若輩ながらも馬場信房・山県昌景らの重臣らと軍議に列した、とされています。

1570年8月、伊豆韮山城・興国寺城攻めが行われており、信茂は山県昌景、武田勝頼とともに韮山城攻めに加わっている。

1571年、富士講振興策として富士道者の増加を図り、関税を半分に減税しました。

1572年三方原の戦いでも先鋒大将を努め3500の兵を率いた。小山田家は投石部隊を備えていたとされ徳川家康軍の石川数正を挑発し撃破。投石は約200mの飛距離があったと言う。武田信玄に勝鬨の音頭の発声を命じられる。

1573年7月、信玄死去後、家康は三河国長篠城攻めを開始し、勝頼はこれに対して後詰を派遣する。信茂はこのときに武田信豊、馬場信春とともに長篠城に派遣されたという。(なお長篠城は援軍自体が遅れたり連携がうまく取れなかったことも影響し陥落)

1575年4月、勝頼は三河足助城攻めを行い信茂もこのときに参陣している。
1575年5月、長篠の戦いでは3200で出陣。先鋒左翼隊長として奮戦するが武田は大敗。小山田信茂勢は討死1000人と武田軍で一番の犠牲者を出しながらも、一時は織田勢の防護柵を破るなど奮戦したとされる。勝頼退却時は勝頼の身辺警護を務めたとされる。

1578年3月、御館の乱に際し、勝頼は景勝・景虎間の和睦を仲介する。信茂は景勝との交渉において、勝頼側近の跡部勝資・長坂光堅とともに取次を担当している。小山田氏は後北条氏との取次を担当していた点からも景勝・景虎間の調停にも携わっていたと見られている。その後景勝・景虎間の和睦は崩れ、景虎が景勝に攻められて滅亡し、これに甲相同盟も破綻する。勝頼はこれに対して景勝との同盟を強化し、甲越同盟が成立する。信茂は引き続き上杉方との取次を担当している。

1581年12月、織田信長・徳川家康(これに連携し北条軍も)は武田領攻めを開始する(甲州征伐)。この際、進行してくる織田軍に対抗するため勝頼は1万5千の軍勢を率い諏訪上原城に入る。信茂もこれに従っている。その後相次ぐ国衆の裏切り、連敗、また甲斐国での穴山信君の裏切りにより上原城にとどまることが出来なくなった勝頼は本拠新府城に撤退し信茂も従う。新府城は当時まだ半造作で籠城できる状態でなく、更なる撤退を迫られます。この時、主な選択の2つに真田昌幸が支配する難攻不落の名城、岩櫃城(群馬県東吾妻町)と小山田信茂の支配する郡内地方にある岩殿城があげられました。(ちなみに岩殿城は小山田家の持城であると元来言われていましたが近年では武田家の持城とも言われています。事実1581年3月には武田勝頼が在番衆を派遣しています。)
この時、武田勝頼は小山田信茂を頼り岩殿城への撤退を決意します。これは勝頼が小山田信茂を頼りにしていた証左ともいわれます。(他にも岩櫃城への道程が遠く道中の治安不安、また勝頼の正室が北条氏の姫であるため北条氏に送り返すために北条氏の勢力圏に近い岩殿城を選んだともいわれています。)
岩殿城への撤退が決まり、勝頼一向に先立ち、出迎えの準備を整える名目で信茂は本拠地谷村に帰還します。その後勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという(信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある)。

その後武田勝頼一行は進退窮まり、勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑されました。嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。

5.現在の状態

案内板。様々な登城口がありますが当時は多数崩落していて登城口は限られていました。
岩殿城の説明版
私が登城した畑倉口。駐車スペースもあります。ただ登城路はかなり険しいです。体感垂直です。
畑倉口から登ると途中に鬼の岩屋というのがあります。
登り切って反対側から見た本丸。
曲輪。本丸付近は整備されています。
本丸の看板。
山頂。石碑もあります。
山頂付近から下を除く。下の高速を見るといかに峻険な城かわかると思います。
山頂から東方面。
山頂から西方面。
天気が良ければ富士山が見えます。当時も見えていましたが写真では見えませんね。

2017年8月の台風5号で岩殿山の斜面が崩れて登山道が多数崩壊してます。
詳しくは、下記の大月観光協会サイトにて、最新情報をご確認願います。

大月観光協会「岩殿山」

6.アクセス

住所

〒401-0001 山梨県大月市賑岡町畑倉

岩殿城の城周辺の城

入口までのルート

登城口は多数ありますが前述の通り、多数崩落してます。

私が使用した畑倉登城口は国道20号から国道139号に入り、しばらく北上すると左手に見えます。

城を一望できる場所

ビューポイント
イオン大月店の駐車場からだと城を一望できます。

城に関するおススメ書籍




以上、岩殿城の紹介でした。

この記事が皆さんのお役に立てば幸いです。

それでは、また

ABOUT ME
yabouroku
グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」