【流浪の城巡り】栖吉城(新潟県長岡市)~古志長尾家の本拠地~ ※2022年10月更新

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こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は新潟県長岡市の栖吉城の紹介をしたいと思います

グルファビの評価

総合評価 ☆☆★★★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆☆☆★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★ ☆☆☆☆★
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古志長尾家の本拠です

大規模な山城です
非常に見ごたえがあります

城の概要

普済寺の東背後に聳える標高365mの城山に築かれている。 普済寺の北方に平時の館があったといい、ここから通じる登山道が大手という。

城は東西の峰に築かれており、東峰は古城または姫城と呼ばれており、西峰との間は三重堀切によって区画され、古城の東尾根も二重堀切が残る。

西峰の本城部分は、南の畝状竪堀群を横目に三の丸へ入り、三の丸と二の丸は空堀に架かる土橋を渡って入る。本丸の周囲は空堀が巡り、北西側に虎口が開く。

城の歴史

築城年ははっきりしないが、永正年間(1504年 – 1521年)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から古志長尾家の本拠を移したとされる。

御館の乱では景勝の中心的な上田長尾家(通称、上田衆)との対抗上上杉景虎に与したが、居多浜の合戦に於いて城主上杉景信(通称、古志十郎)が討死。城も落城して古志長尾家の本流は滅亡した。

乱後は上杉謙信在命中に古志長尾家を継承(長尾姓の名乗りは辞退)していた河田長親が古志長尾家の遺臣たちを栖吉衆として再編。その長親が越中松倉城で急死すると最前線は無理との判断で嫡男の岩鶴丸が栖吉城に戻される形で城主となるが早世。親戚筋の河田親詮が河田家を継ぐも軍役を縮小されて栖吉衆の一武将に格下げとなった為に名実共に古志長尾家は滅亡となった。

上杉家の会津転封により廃城となったが、河田家の没落以後は景勝直参となった栖吉衆が番将として治めた。

古志長尾家

景忠の一族(弟とも)で、養子として景忠から越後守護代職を譲られた景恒(景廉とも)を祖とする家。景恒の子のとき、上田荘(新潟県南魚沼市)を本拠地とする上田長尾家、古志郡蔵王堂・栖吉(新潟県長岡市)を本拠とする古志長尾家(栖吉長尾家とも)、蒲原郡三条(新潟県三条市)を本拠とする三条長尾家の3家に分かれた。中でも三条長尾家が越後守護代職を世襲し、越後府中(新潟県上越市)に居住したため、この家を府中(府内)長尾家とも呼ぶ。

古志長尾家の景信は謙信が上杉の名跡を継いだとき、ともに上杉に改姓して上杉十郎景信と名乗り、長尾上杉一門の重鎮となったが、謙信死後の家督争いで景勝と敵対したため息子で当時の党首だった信虎とともに滅ぼされた(なお、景信が上杉に改姓した際に古志家の家督は謙信の側近の河田長親に譲られたが、彼は長尾姓に改姓することを辞退したという)。

現在の状態

アクセス

住所

〒940-0821 新潟県長岡市栖吉町

入口までのルート

普済寺の裏手側から入れます

善照時方面からは行くといけそうな雰囲気を出しつつ行き止まりに当たるので注意

城を一望できる場所

ビューポイント

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yabouroku
グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」