【流浪の城巡り】沼津三枚橋城(静岡県沼津市) ~武田勝頼渾身の城、武田水軍拠点~ ※2023年6月更新

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こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は静岡県沼津市の沼津三枚橋城の紹介をしたいと思います

総合評価 
☆☆★★★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆★★★★ ☆☆★★★ ☆☆☆★ ☆☆☆★★ ☆☆☆★★ ☆☆★★★

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静岡県沼津市にある城跡です。

駿豆国境の城として主に武田勝頼時代に活躍した城です。
現在は遺構はほとんど残ってなく、再現された石垣が残っているのみです。

城の概要

三枚橋城が築城された狩野川河口域付近は、縄文時代以降、浮島ヶ原付近から延びる砂州による閉塞と、主として火山噴出物が供給されることによって陸化していった。三枚橋城付近では、約4500年前に形成されたと考えられている砂州上の微高地の上に、更に縄文時代末期に富士山で発生した大規模な山体崩壊である御殿場泥流の堆積物が堆積している。御殿場泥流によって黄瀬川の鮎壺の滝付近を扇頂とした黄瀬川扇状地が形成され、扇状地の末端部分にあたる三枚橋城付近で、約3メートルから5メートルの厚さで堆積している。

三枚橋城はもともとが砂州という微高地の上に、更に富士山の山体崩壊によって流下した泥流によって形成された扇状地の末端部分という地形上の高まりを利用して築城された。また城域の東西には侵食によって谷状の地形が南北方向に延びており、その谷状の地形を利用して堀が南北方向に造られている。

JR沼津駅近くの中央公園が本丸跡といわれる三枚橋城は、武田信玄が1570(元亀元)年に築城、1579年、武田勝頼が、川向こうにある北条氏の戸倉城に対抗する目的で築城したもの、など様々な説があります。武田家滅亡後は徳川家康のものとなり、家康が関東に移封されると、豊臣家の中村一栄(中村一氏の弟)が城主になります。

城の歴史

三枚橋城の築城時期には諸説あり、『北条五代記』といったいくつかの軍記物の中では、永禄年間(1558年から1570年)からその存在があったかのような記述があるが、信頼できる一次史料による確実な築城時期となると1579年(天正7年)までしか遡ることができない。
その他には1570年、駿河に侵攻し韮山城、興国寺城と争った際に橋頭堡として築城されたものとされるもの、その他の説には1479年に北条早雲(伊勢新九郎長氏)が今川氏のために築城したとされる等がある。

この時期というのは、上杉氏の後継者問題に端を発した甲相合戦(武田氏と北条氏の争い:甲斐と相模のこと)の時期である。実際の文書を見ると、1579年9月3日の北条氏政の書状(『戦国遺文後北条氏編2099』)には、それまで同盟関係があったにもかかわらず「駿豆之境号沼津地、被築地利候」と築城を非難する様子が書かれている。戦国大名同士が同盟を締結する場合、国境の砦や城は破却されるのが原則であった。そのため、どちらかが城を造ることは敵対行為であり、北条氏政にとっては、武田氏が駿豆国境に築城したことが重大な盟約違反として、この書状中で戦闘状態への突入を家臣に伝えたということである。また、武田氏側も同年9月17日付の「武田勝頼書状」(『戦国遺文武田氏編3163』)で「於豆州境新城相築候」と上杉景勝宛に報告している。
1579年以前の築城の説を採用するならば、以前から城があり武田、北条、今川が紛争となるたびに軍事拠点として利用・再興され、同盟などにより付近が平和となれば廃城される、というのを繰り返され、本格的な改修をされたのが1579年だったのかもしれない。

現在三枚橋城と呼ばれるこの城は、これら当時の文書には「沼津」とだけ記されている。そして、三枚橋の名称は『北条五代記』や『武徳編年集成』など後世の軍記物にしか見ることができないことから、築城当時は沼津城と呼ばれていた可能性がある。ただし、この城が近世に大改修が実施され沼津城と呼ばれていたため、混乱を避けるため両者を区別して中世(戦国時代)の城を三枚橋城、近世(江戸時代)の城を沼津城と呼んでいる。

1570年以後、北条氏と武田氏は、沼津付近で数度にわたって戦う。

一例として、『甲陽軍鑑』によれば、1579年9月に武田勝頼の軍勢と北条氏政の軍勢が黄瀬川を挟んで対峙した。ただ北条軍からは「自分の国を防衛するために出陣したのであって、合戦によって他国を取ろうとするために出てきたのではない」と返答があったことから、勝頼は三枚橋城に武田信豊・春日信達らを黄瀬川に布陣する北条軍の押さえとして配置し、自らは徳川軍と戦うために西に向かったとある。北条氏政は勝頼本隊が西に向かうと、黄瀬川を渡り三枚橋城を包囲し攻撃を開始したが、籠城する信豊・信達らの頑強な抵抗にあって陥落させることはできず兵を引いた。北条軍はその後も三島に布陣し、三枚橋城の武田軍との睨み合いは続いた。

武田時代は武田水軍の拠点として活用された。

1582年2月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻が開始され、同年2月29日、近傍の武田氏の戸倉城が北条氏の攻撃により落城したことを受け、守備兵が動揺する。同年3月28日夜に信達は三枚橋城を放棄し、落城した。春日信達は海津城へ逃れており、小笠原信嶺は降伏し、織田氏から本領を安堵されている。

ただし、開城した三枚橋城に入ったのは駿河から侵攻してきた三河国の徳川氏であり、松平忠次が城主として入城した。

1590年3月27日、小田原征伐で東下する途上の豊臣秀吉がここに滞在した。奥州の果て津軽から参陣した津軽為信はその際にで謁見し、所領を安堵された。

1601年、大久保忠佐が城主となり沼津藩主となる

1613年、忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌1614年に廃城となる。同年には火災がありその後徳川忠長が治め御殿を建てるものの1641年に焼失し、外堀と二の丸に開墾許可が出され、1674年田畑となった。1687年には二の丸や土手が、また1689年にも二の丸や土手が入札され農地化が進み、三枚橋城は姿を変えて行き、新たな町が誕生し(上土町・川廓町・志多町)沼津宿を形成していった。

なお、同地付近での建築工事時に見つかった石垣用の石を沼津リバーサイドホテル前、アゴラ沼津前、および沼津城本丸址で見ることができる。

現在の状態

アクセス

住所

〒410-0801 静岡県沼津市大手町4丁目3−2

入口までのルート

沼津駅の南側、狩野川側の公園が沼津三枚橋城の跡地になります

駐車場などはないため、路駐するか、駅から徒歩で訪れるしかないです。

城を一望できる場所

ビューポイント

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グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」