こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです
今回は小幡城の紹介をしたいと思います
グルファビの評価
総合評価 ☆☆☆★★ | |||||
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遺構 | ロケーション | 整備 | 歴史的価値 | アクセス | マニア度 |
☆☆★★★ | ☆☆☆☆★ | ☆☆★★★ | ☆☆☆★★ | ☆☆★★★ | ☆☆☆☆★ |
石、ですね
とにかく石塁がすごいです
気分はロッククライミングですね
峻険で登るのには結構苦労します
石塁のほかに土塁や曲輪、堀切なども残っています。
あまり整備されていませんが、その堅固さやなどは肌で感じられるとおみます。
城の概要
獅子吼(ししく)城は塩川と湯戸ノ沢が合流する北東側にある城山に築かれています。 大半が石塁によって築かれている点が特徴です。甲斐から野辺山方面の信州峠に続く旧小尾街道が城の北を通っています。
最初の築城は不明ですが、平安時代には馬の産地であり、朝廷直轄の牧があったとも言われています。
甲斐武田氏の一門、江草氏の居城でした。その後1509年に小尾なる武将に乗っ取りに遭いました。その後討伐等があった形跡がないので合戦ではなく養子等による円満な乗っ取りだった可能性もあります。
その後、武田一族の今井氏の居城になり甲斐守護武田家と甲斐の覇権をかけて衝突しますが武田氏が勝ち、武田氏の領土となります。その後は天正壬午の乱の際に徳川と北条氏の係争地になりました。
城の歴史
築城時期は不明です。平安時代に馬産地であったこの場所に朝廷の牧が置かれておりその管理する牧監が置かれていたと伝わるのでその頃に小規模な城のようになっていたのかもしれません。
1320年に信田小右衛門実正・小太郎実高父子が討死した記録が見性寺の寺記に残っている。
応永年間(1394年〜1428年)には武田信満の三男江草兵庫助信泰の居城で、見性寺に位牌と木像が安置されています。
1509年、小尾弥十郎なる武将が、獅子吼城(江草城)を乗っ取りました。これは合戦なのかクーデターなのか養子なのかははっきりしません。小尾氏の小尾党は、信州峠の川上口の警固を行っています。
1530年前後の獅子吼城主は、今井信是・今井信元の親子で、諏訪頼満や、大井氏・栗原氏と協力して、武田信虎と敵対しています。上記で城を乗っとった小尾氏との関係ははっきりしていません。
1531年、今諏訪の戦いで武田信虎に大敗を喫し獅子吼城に籠城します。
1532年9月、降伏し、これにより武田信虎の甲斐統一となりました。
その後、武田治世下に置いては武田の狼煙連絡網の中継地として重要地であったようです。武田治世下に置ける獅子吼城の城主は不明ですが、小尾党が管理していたのかもしれません。
1582年、本能寺の変後、天正壬午の乱に置いて北条軍が獅子吼城を占拠したが、服部半蔵率いる伊賀組と小尾党など周囲の国人の夜襲によって落城しました。これが戦国時代最後の甲斐での合戦と言われています。その後、この獅子吼城攻防戦が決定打となったのか、徳川氏と北条氏は和睦し甲斐は徳川領となりました。その後ほどなくして廃城になったと思われます。
甲斐今井氏について
甲斐国山梨郡ここゐ裏城(不明)を本拠としました。清和源氏武田氏の庶流にあたり、15世紀前半の甲斐守護・武田信満の子息である武田信景を祖とします。本家である浦今井氏は戦国時代に国衆として活動した。1519年から1520年にかけて甲斐守護・武田信虎に反旗を翻した人物に「浦兵庫」がおり、これを浦今井氏当主の今井信是もしくはその子息の今井信元に比定する説があるが不明です。
1519年、甲斐国統一を進める守護武田信虎と衝突し今井氏は信濃諏訪氏と連合を組み、甲信国境で激突しました。この戦いで敗れ今井氏は一旦降伏します。
1520年、信虎の甲斐国人に対する甲府集住政策に対して栗原兵庫、大井信達らと共に反発して信虎を蔑視、甲府から退去して反乱を起こした(『勝山記』)。しかし6月8日の都塚の戦い、6月10日の今諏訪の戦いで栗原、今井、大井らは信虎に大敗。信是は大井信達と共に信虎に降り、降伏の条件として息子・信元に家督を譲った。
1531年、飯富虎昌や栗原兵庫、大井信業らと結んで信虎に反乱を起こし、さらに信濃国の諏訪頼満にも支援を要請した。これは今井家と諏訪氏が縁戚にあった事、諏訪家の仇敵である金刺昌春を信虎が匿っていた事、信虎が扇谷上杉家の上杉朝興と結ぶために山内上杉家の上杉憲房の未亡人を側室にした反発とされる。頼満は信元らと連合して甲斐に出兵して笹尾砦を奪うが、2月2日に今井・大井連合軍は信虎の前に大敗して大井信業や今井備中らが敗死(『一蓮寺過去帳』)、さらに4月12日(3月12日説も)には河原辺(現在の韮崎市)で信虎軍と激突する(河原辺の戦い)。この戦いで諏訪・今井・飯富・栗原連合軍は800人余を失って大敗した。敗戦後、今井信元は獅子吼城に籠城してなおも信虎に抵抗しました。
1532年、9月に開城して遂に信虎に降参し臣従した。これにより、武田信虎による甲斐統一が果たされた。その後、武田信虎の一門衆に今井信房・今井信甫・今井虎甫・今井虎意・今井信昌が列なる。
また、武田信玄期の武田家一門側近衆に今井信昌・今井信俊が列なる。
『甲陽軍鑑』によれば、1560年に「かつぬま五郎殿」が相模国の後北条氏の従属国衆である藤田氏もしくは大石氏への内通の疑いで成敗されたとされる。『甲陽軍鑑』ではこの「かつぬま五郎殿」を御一門衆・勝沼信友の子息としているが、実際には府中今井氏当主・今井信甫の子息である今井信良に比定され、この頃には越後国の長尾氏が後北条領へ侵攻していることから、長尾氏に内通した可能性が考えられている。この事件以降、勝沼今井氏の動向は途絶するが上野国今井氏と合流したとの説がある。
武田家中では今井信仲が1575年11月以前に信濃国上伊那郡を管轄する「上伊那郡司」となっている。『甲乱記』によれば、1582年3月に織田・徳川連合軍の武田領侵攻に伴い都留郡へ逃亡し、同地で処刑されたと記されている。
江戸時代になり、今井信俊の子孫が高尾氏を称して甲州八代郡内を領し、旗本として存続した。
4.現在の状態
5.アクセス
住所
〒408-0103 山梨県北杜市須玉町江草5527
入口までのルート
国道601号線から橋を渡り、集落のほうに進んでいきます。
道が狭いので注意です。
一応一台程度の駐車スペースがあります。地元の方の迷惑にならないように駐車しましょう。
この舗装から外れた場所が登城口になります。
城を一望できる場所
山間部なので離れすぎると城を望めないのでこの辺が城を一望できる限界だと思います。
城に関するおススメ書籍
甲斐今井氏についての記述があります。信虎との多胎の詳細がわかります。
天正壬午の乱について一番詳しく書かれている書籍だと思います。獅子吼城の攻防戦についても詳しく記載されています。