こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです。
今回は松本市の要衝、長野県松本市の平瀬城の紹介をしたいと思います。
※この記事は筆者自身が訪れた城を説明、紹介する記事です。
1.グルファビの評価
総合評価 ☆☆☆★★ | |||||
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遺構 | ロケーション | 整備 | 歴史的価値 | アクセス | マニア度 |
☆☆☆★★ | ☆☆☆☆★ | ☆☆★★★ | ☆☆☆★★ | ☆☆☆☆★ | ☆☆☆★★ |
松本市の北端ににあります。
犀川に面している山岳地帯に建てられています。
平瀬城は本城となっており北と南に支城があります。
主郭部分は非常に広く土塁等の遺構も残っています。また、本丸からは松本平野を一望できます。
登城路は結構険しいです。
2.城の概要
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。築城年代は定かではないが平瀬氏によって築かれたと云われる。 平瀬氏は犬甘氏の一族で犬甘氏とともに小笠原氏に従っていた。
安曇郡に通じる川手往還沿いにあり、平瀬山の南西に張り出した尾根先にある南城と、北西に張り出した尾根先にある北城からなる馬蹄型の山城であり、両尾根間を泉小太郎伝説で重要地点とされる犀乗沢が流れてます。
上田方面に通じる街道の出入り口にあり、川に接している東岸の山岳地帯の尾根に築かれており位置も立地も良好な城跡になっています。
3.城の歴史
築城年代は不明だが、小笠原氏の家臣、平瀬氏によって築かれていた言われています。
1550年、松本平野の大名、小笠原長時は武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。
武田晴信が戸石城の合戦で村上義清に大敗すると(戸石崩れ)、村上義清は佐久地方に侵攻、ついで義清のもとに身を寄せていた小笠原長時とともに平瀬城に入った。義清・長時の出兵により、筑摩郡では小笠原氏の旧臣らが結集した。これを受けて深志城将の馬場信房、日向是吉は籠城の態勢を整えて甲府に報じ、この報を受けた武田晴信は甲府躑躅ヶ崎館を出陣し、中下條まで出馬した。この晴信の出馬により村上勢は動揺、武田軍が小県から村上領に侵攻するという噂が流れ、村上軍は突如平瀬城から撤退、佐久の小諸城に入った。この村上軍の突然の撤退により長時は落胆したが、長時は単独で武田軍と対戦を決意。しかし武田軍出馬と村上軍の離脱により旧臣諸将の脱落が相次ぎ、長時は平瀬城を出て、野々宮の合戦で武田の前進部隊を破った後、中塔城に立て籠もった。その後半年(3年とも)の籠城の末、落城し越後の謙信を頼り落ち延びました。
1551年、村上義清は仁科氏の属城であった丹生子城を攻め落とした。この報を受けた武田晴信は甲府躑躅ヶ崎館を出陣、深志城に入り、小笠原軍の抵抗拠点となっていた平瀬城を攻撃、城将平瀬八郎左衛門以下204名を討ち取り平瀬城は落城、武田の属城となった。晴信はここを前進拠点とするべく、城割(破却)を実施した上で改めて鍬立てを行い、原美濃守虎胤を城将に任じている。平瀬城は武田氏の小笠原残党掃討の基地となりました。
1552年、武田軍は小岩嶽城を攻撃、落城させた晴信が平瀬城に入っている。
1553年、晴信は塔原城、平瀬城を破却、筑摩・安曇の拠点を深志城に一本化し、平瀬城は廃城となった。
4.現在の状態
5.アクセス
住所
〒390-0851 長野県松本市島内
入口までのルート
画像左下の国道19号から脇道に入り、八王子神社の少し北側に2~3台が停めれる駐車場があります。
その少し北に登場口があります。