こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです
今回は群馬県みなかみ町の猿ヶ京城の紹介をしたいと思います
グルファビの評価
総合評価 ☆☆☆★★ |
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遺構 | ロケーション | 整備 | 歴史的価値 | アクセス | マニア度 |
☆★★★★ | ☆★★★★ | ☆☆★★★ | ☆☆☆★★ | ☆☆★★★ | ☆☆☆★★ |
群馬県と新潟県の県境、群馬県側にある城です
新潟側から見ると上野北部の一大拠点沼田城との中継地点にあり、貴重な遠征拠点となっていました。城跡と思われる場所はホテルが建っており、その裏側に空堀等が残っていますが、あまりわかりやすい遺構は残っていません。
城の概要
猿ヶ京城は南へ張り出した台地の端に築かれている。
城の周囲の赤谷湖はダムによる人工湖でかつては断崖であったと思われる。現在は湖城閣というホテルのあるところが主郭で、北に二郭があった。
主郭はホテルの敷地となっており、この入口のところに案内板がある。その外側には大きな空堀と土塁があり、さらに畑となった外堀などが残っている。
城の歴史
築城年代は不明で築城者は山内上杉氏(※関東管領上杉顕定)、あるいは尻高氏という説もあるが不詳。
1560年、長尾景虎(のちの上杉謙信)が、この城に逗留し猿ヶ京と名付けたというが、猿ヶ京の地名については異説もあり、むろん史実であるかどうはわからない
上杉謙信が上杉家当主の時代は、関東遠征の拠点となっており、越山の度に宿営した
1578年、御舘の乱が発生した際に、景勝方の拠点となったが後に北条方の手に渡る。
1580年、上杉方である尻高左馬助(※景家、その子義隆という説もある)が宮野城を守っていたが、真田方に包囲され開城の上、後関の如林寺で自決したとも伝わる。
1582年、沼田へと進軍した滝川一益は宮野で上杉景勝方と戦い敗北したともいわれている。
江戸時代に入ると、江戸幕府に猿ヶ京に三国街道の関所が設置し、関東と日本海側の境界を守る猿ヶ京城はその役割を終えた。
現在の状態
アクセス
住所
〒379-1403 群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉121
入口までのルート
国道17号線から「ホテル湖城閣」に向かえば到着します