【流浪の城巡り】安田城(新潟県阿賀野市)と安田氏・安田長秀 ~大江姓毛利安田氏の本拠~ ※2023年4月更新

Pocket

グルファビ

こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです

今回は新潟県阿賀野市の安田城の紹介をしたいと思います

グルファビの評価

総合評価 ☆☆★★★
遺構 ロケーション 整備 歴史的価値 アクセス マニア度
☆☆★★★ ☆☆★★★ ☆☆☆☆★ ☆☆★★★ ☆☆☆☆★ ☆☆★★★

グルファビ

新潟県阿賀野市にある城跡です。

現在は児童公園となっており、主郭部分の遺構などはあまり残っておりません。
しかし主郭周辺を中心に内堀や土塁などが比較的良好な状態で残っています。

城の概要

安田城(やすだじょう)は、越後国蒲原郡(現在の新潟県阿賀野市)にあった日本の城。

白河庄(現在の新潟市北区の一部を含む阿賀野市周辺)の地頭に任ぜられた伊豆の大見氏が、鎌倉時代の初頭に入封し築城されたと言われている。また、築城された頃は周囲の沼地を天然の堀とした主郭のみの館であったが、他の鎌倉期から存在する城と同様に戦国期に外郭や堀を増設し、本格的な城郭となったと考えられている。

本丸は方形で周囲に水堀が巡らされている。南西隅に櫓台と見られる土盛が現存する。

城の歴史

鎌倉時代の初頭、白河庄(現在の新潟市北区の一部を含む阿賀野市周辺)の地頭に任ぜられた伊豆の大見氏が築城したと言われている。

越後大見氏は地名の安田を名乗り、その分家は分地先の水原を名乗っている。
戦国時代には、揚北衆と呼ばれる北越後の国人衆として上杉謙信を始めとする上杉家の家臣として活躍。城主安田長秀は謙信より血染めの感状をうけており、この書状は現存している。

戦国時代は安田氏の居城として活動する

1598年、上杉氏が会津に移封となると、その後に本庄城に入った村上頼勝の配下である吉武右近が入城。1618年に堀直寄が村上城(本庄城から改名)に入り、配下の番城となる。

1622年に一国一城令が発布された事により一旦は廃城。

1639年、直寄の次男の直時が3万石で安田藩を創設した事により安田城も陣屋としてではあるが復活する。しかし、その子直吉は1644年に領地替え(領地交換)により村松(現在の五泉市)に移り再び廃城となった。

安田氏(大江姓毛利氏)

安田氏(やすだし)は、大江姓毛利氏の系統を受け継ぐ日本の氏族。

大江広元から、毛利季光 – 毛利経光と続く大江姓毛利氏があるが、 毛利経光の長男、毛利基親は越後国毛利氏の祖となり、 毛利経光の四男、毛利時親は安芸国毛利氏の祖となる。

その後、基親の家系は毛利時元 – 毛利経高と続き、越後北条氏、安田氏へとさらに枝分かれした。

南北朝時代
越後安国寺と安田氏が鵜河庄安田をめぐり揉めたとある。長尾氏や上杉氏もこれに関わったが、結局将軍足利義満は安田憲朝の鵜河庄相続を認めた。

室町時代
憲朝の長男の房朝は安田家を出て、鎌倉公方足利氏に従い戦功をあげた。房朝が家を出たため、安田家は房朝の弟の道元が継いでいる。しかしその後関東公方に従っていた房朝は越後に戻り、越後守護上杉房定に対し傲慢な振る舞いをするようになった。安田当主である道元の息子、重広は房定の命を受け、伯父の房朝を討った。

戦国時代
1507年、守護代の長尾為景が、守護の上杉房能を討つという事件が起こる。その後上杉氏と長尾氏の抗争が起きるが、通説では安田家当主安田広春は長尾為景に従い、各地で戦ったとされる。しかし、実際にはその前後の安田氏の当主は弥九郎という人物でその死後に長尾為景が安田百(幼名)に所領を安堵したことが知られている。百はその跡を継いだ景元とみられ、広春は安田氏・北条氏の庶流から越後上杉氏の奉行人に抜擢された人物とみられている(ただし、広春が安田氏の娘婿として名代を務めた可能性はある)。

安田景元は長尾晴景 – 景虎(上杉謙信)に従う。景元のあとは顕元に引き継がれ、顕元は信濃国の飯山城を任された。だが顕元は御館の乱の争いに対する恩賞の問題で、景勝側近と景虎方の武将の板ばさみにあい自害した。顕元の弟、能元が跡を継いだ。

安土桃山時代・江戸時代
その後豊臣秀吉の天下統一を経て、上杉景勝の会津転封にも従う。秀吉死後の関ヶ原の戦いで上杉家は西軍石田三成方についたため減封となり、能元も米沢に移った。安田家は代々にわたって続いていくことになる。

また毛利氏に復姓し、米沢藩家老を務める者もいた。

安田 長秀

長秀の史料初見は享禄4年(1531年)であり、その頃既に長尾為景に属する豪族の一人として署名が見られる。以降は通称の「治部少輔」として史料上散見される。なお「安田氏系譜」では別称を但馬守としたとしているが、史料上からは確認できない。

上条定憲の乱で長尾氏に従って以降、長尾氏・上杉氏の家臣として従い、特に永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいては上杉政虎(謙信)従って勇戦し、同じ揚北衆の色部勝長・中条藤資らと共に謙信から「血染めの感状」を賜った。謙信の死後に起きた御館の乱では上杉景勝を支持。安田城は上杉景虎を支援する蘆名氏による攻撃を受けている。

長秀と比定されている「安田治部少輔」の史料終見は天正9年(1581年)である。没年は、長秀の末裔が仕えた米沢藩が後に編纂した「御家中諸士略系譜」によると天正10年(1582年)。安田氏の家督は河田元親の三男である与親が相続した。一方、長秀の末裔が幕末に編纂した「安田氏系譜」では長秀の没年を弘治2年(1556年)とし、以後に史料上現れる「安田治部少輔」は長秀の子で、名を安田有重としている。

現在の状態

アクセス

住所

〒959-2221 新潟県阿賀野市保田4807−1

入口までのルート

阿賀野市城之内野球場に向かうところにあります

城を一望できる場所

ビューポイント
平城ですのでわかりづらいですが、木のおかげで雰囲気は伝わると思います

城に関するおススメ書籍


ABOUT ME
yabouroku
グルファビです!20代。東北出身在住。旅、グルメ、城、歴史、ゲームが好きな気楽で流浪な男が自由を求めてゆる~くFIREを目指しつつ皆さんの参考、役に立つ情報を上げていく野望録です。 「二兎も三兎も追ってみる」