こんにちは!来訪ありがとうございます!グルファビです
今日は今話題のウクライナについて調べてみました。
1.ウクライナの概要
面積 | 603,628 km2(日本の約1.6倍) | 45位 | クリミア含む |
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人口 | 43,734,000人(日本の約3分の1) | 33位 | クリミア含む |
GDP 一人当たり |
1,555億ドル(2020年:世銀) 3,726ドル(2020年:世銀) |
57位 118位 |
クリミアを除く |
首都 | キエフ | ||
言語 | ウクライナ語 その他にロシア語等 |
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人口比率 | ウクライナ人:約8割 ロシア人:約2割 その他:クリミア・タタール人、モルドヴァ人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ユダヤ人、高麗人 |
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通貨 | フリヴニャ |
※クリミアについては後述します。
ウクライナは、東ヨーロッパにある国です。北はベラルーシ、西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、南はルーマニア、モルドバ、黒海を挟んでトルコ東はロシアと国境を接し、アゾフ海、黒海に沿った海岸線を持っています。
国土の大半が肥沃な平原、高原地帯に覆われており山岳地帯は南部のクリミア山脈、西部のカルパティア山脈しかありません。そのためか古くから農業が盛んで、紀元前6000年頃の東ヨーロッパ最古の農耕集落遺跡がウクライナから発見されています。
1700年以降は「ヨーロッパの穀倉地帯」と呼ばれ、また天然資源が豊富で重化学工業が発展したため、ソ連時代には「ソ連最大の工業地帯」といわれていました。
またその平坦な国土のためか古代より異民族の侵入が数多あり、そのせいでというべきか、おかげというべきか混血が進んだことで現在「美女の多い国」として有名です。
2.ウクライナの食文化
ウクライナ料理はウクライナ人の伝統的な食文化を代表する東欧料理の一つです。ボルシチやヴァレーヌィクなど世界的にも有名な料理があり、ポーランド・リトアニア・ルーマニア・ロシア・ユダヤなどの食文化にも大きな影響を与えました。
・基本的に味が濃い。魚料理や肉料理よりは野菜料理が圧倒的に多い。
・一般的な調理法は軽く炒めて茹でること、また軽く炒めて煮ること。揚げ物などは少ない。料理にはバターやラードのほか、向日葵油が好まれる。
・主食はパン。パンやそれに類する食品が多い。例をあげると、丸パン、ヴァレーヌィク(東欧風餃子)、ハルーシュカ、フレチャーヌィク(団子)、コールジュ、コロヴァーイ(ケーキの一種)。
・野菜料理はスープや野菜の煮物(特にじゃが芋)が圧倒的に多い。もっとも一般的なスープはボルシチで、大まかに言っても50種類以上のレシピが伝わる。
・肉料理では豚肉料理が一番多い。サーロ(豚の脂身の塩漬け)が頻繁に利用される。
・魚料理には鯉類がよく使われる。
・飲み物は甘い、もしくは甘辛いものが多い。メドヴーハ(蜂蜜酒)、ホリルカ(唐辛子入りのお酒)、ナスチーイカ(果実酒)、クヴァース(液体のパンと呼ばれている)など。
・長期にわたる外国の支配による他国の料理の影響が見られる。西部ではドイツ料理(揚げ料理)・ハンガリー料理(辛い料理)・トルコ料理(揚げ料理)・クリミア・タタール料理(揚げ料理)など、東部ではロシア料理(すっぱい・脂っこい料理)などの影響が強い。
代表的な料理
スープ料理
ボルシチ:テーブルビート(ブリャク)を中心とした紫色の野菜スープ。ロシア・ポーランド・リトアニア・ユダヤ人などの料理に影響をあたえ、世界的に認められているウクライナの代表的料理の一つ。ウクライナのそれぞれの地域によって作り方が異なる。ウクライナ中部では50種類以上のレシピが存在する(「赤のボルシチ」・「緑のボルシチ」、「ヘーチマンのボルシチ」、「冷たいボルシチ」、「茸のボルシチ」など)。
ソリャンカ:漬物、香辛料を中心としたオレンジ色のスープ。意訳すると、「塩辛い吸い物」または「田舎の吸い物」。ロシアのシチーという酸っぱいスープと、ウクライナのボルシチを融合したもの。
ユーシュカ:魚の出汁で作った魚スープ。ユハー、ウハーとも。
肉料理
コトレータ:ウクライナのカツレツ。
パン料理
ヴァレーヌィク:水餃子に似た包み料理。具は煮込んだキャベツ、ジャガイモの他、甘く煮たリンゴやサクランボ、チーズなど。
パンプーシュカ:酵母によって発酵させた小さな丸パン。
プィリジュクィ:ウクライナ風ピロシキ。パン生地かパイ生地に挽き肉や魚肉、時にはジャムを包んで焼いたもの。
ムルィンツィー:ウクライナ風クレープ。
その他
カーシャ:お粥。
サーロ:豚の脂身の塩漬け。
3.ウクライナの歴史
紀元前
約30万年前
現在のウクライナで人類が現れたのは旧石器時代初期、約30万年前であるとされています。原人段階の人類は中東からカフカス山脈とバルカン半島を経て、黒海北岸へ移動したと考えられた。
12万年前
12万年前から旧人(ネアンデルタール人)が登場した。
4万年前
4万年前に新人(クロマニョン人)が出現した。ウクライナで発見された旧石器時代後期の新人遺跡は約800があり、新人の人口は約2万であったと推測されてる。
1万年前
1万年前以後、中石器時代において欧州の気候が定まり、ウクライナでは北部の森林地帯、中部の森林草原地帯、南部の草原地帯といった気候地帯が成立した。それぞれの地帯において異なる文化圏も形成された。人類は弓矢を使い、動物を飼育することができた。
紀元前6千年
紀元前6千年期から人類は農業を始め、土器や布などを作成するようになり、新石器時代に入った。ウクライナで見られる新石器時代の農耕集落跡は、東欧最古であると考えられている。
紀元前4千年期
紀元前4千年期後半、ドニステル川とドニプロ川の間の地域では、トルィピーリャ文化が発展した。トルィピーリャ人は、定住して農耕・畜産を営み、数百人の人口を持つ大きな集落で暮らしていた。彼らがウクライナで初めて犂(すき)、ドリルと銅加工技術を用いた人々であった。トルィピーリャ文化は東地中海文化圏に属していたと思われる。
紀元前3千年期
紀元前3千年期末になると、トルィピーリャ文化に変わって、青銅器時代の縄文土器文化と竪穴墓文化という新たな文化が誕生した。前者は農耕文化で、中央・東ヨーロッパにも広がり、ウクライナの森林地帯・森林草原地帯までに及んでいた。後者は畜産文化で、草原地帯を中心に黒海北部から裏海北部まで拡大していた。縄文土器文化の人々はインド・ヨーロッパ語族のゲルマン人・バルト人とスラヴ人の祖先になったが、竪穴墓文化の担い手のウクライナ南部の遊牧民の祖先となったと推測される。
紀元前2千年期末から紀元前1千年期
紀元前2千年期末から紀元前1千年期に、ウクライナにおける縄文土器文化はトシーネツィ・コマリーウ文化 とビロフルーディウカ文化へ移行したが、竪穴墓文化は校倉造墓文化によって入れ替わった。校倉造墓文化の人々は畜産の遊牧民で、インド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属していた。紀元前15世紀以後、彼らからキンメリア人、スキタイ人、サルマタイ人などが分かれたと考えられる。キンメリア人は、ホメーロスの『オデュッセイア』を初めとする古記録・古史料で見られるウクライナの最初の民族である。ホメーロスは黒海北岸の地を「キンメリア人の地」と呼んでいる。
紀元前10世紀
キンメリア人は伝統的な牧蓄を行いながら、紀元前10世紀から鉄生産技術を発展させ、周辺の地域を自らの支配下においた。
紀元前8世紀から紀元前7世紀
紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて、力を蓄えたキンメリア人は、小アジア半島の都市を略奪するため度々に遠征に出兵した。しかし、紀元前7世紀末期になると、キンメリア人の東に住んでいたスキタイ人はキンメリア人を黒海北岸から西方へ追い出した。
紀元前6世紀から4世紀
紀元前6世紀頃にキンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸には古代ギリシアの植民都市が建設され、地中海やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、古代ギリシア、ローマ帝国の文化的影響を受けた。
紀元前3世紀
紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。
※サルマティア人:紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団
古代
2世紀
2世紀頃、東ゴート族が王国を建てた。
※東ゴート族:ゲルマン人の一派。150年ごろから黒海北岸に定住していたゴート族の一派である
3世紀
3世紀中頃に東ゴート族がクリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点はのちに都市国家へと発展した。
4世紀から5世紀
4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。
※フン族:4世紀から6世紀にかけて中央アジア、コーカサス、東ヨーロッパに住んでいた遊牧民
6世紀
6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃に移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。
※アヴァール : 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族
7世紀から8世紀
7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあった。
※ハザール可汗国:7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家
中世
8世紀
8世紀ごろ、ウクライナではルーシという国が誕生し、東スラヴ人のポリャーネ族の町キエフはその首都となった。
9世紀
882年にオレグ公(882年 – 912年)が率いる北欧のヴァイキングがキエフを陥落させると、ルーシはヴァイキング系のリューリク大公朝のものとなった。研究史上では、朝廷の中心がキエフに置かれていたことから、当時のルーシをキエフ・ルーシ、あるいはキエフ大公国と呼ぶ。
※ヴァイキング:ヴァイキング時代(Viking Age、800年 – 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装集団を指す言葉。
10世紀
オリハ大公女(945年 – 965年)、その子息スヴャトスラウ大公(965年 – 972年)、孫ヴォロディーミル大公(980年 – 1015年)、および曾孫ヤロスラウ大公(1019年 – 1054年)の治世はルーシの全盛期となった。キエフの大公朝は、周辺の東スラヴ人をはじめ、北西のバルト人と、北東のフィン・ウゴル人を征服し、支配領域を拡大させた。
988年にヴォロディーミル大公のころ、ルーシ人は東ローマ帝国からキリスト教(のちの正教)を受けて国教とした。この出来事はウクライナの運命を決し、ウクライナはキリスト教文化圏に属することとなった。
11世紀
11世紀におけるルーシは約150万平方キロメートルの面積を誇る、欧州の最大の国家となった。ルーシは、北方のバルト海とフィンランド湾から南方のウクライナ草原まで、そして西方のカルパティア山脈から東方のヴォルガ川まで広がっていた。周辺の諸政権が滅ぼされ、全ての国土はリューリク朝の諸侯の間に分けられた。
12世紀
12世紀にルーシは領土をめぐる諸侯の争いによりいくつかのリューリク系の諸公国に分裂し、キエフ大公の権威が衰退した。名目上でキエフはルーシの首都の役割を果たしていたが、諸公国は事実上の独立国となった。
13世紀
13世紀にルーシの国体は完全に退勢し、1240年代にモンゴル帝国の軍による侵攻(モンゴルのルーシ侵攻)で滅ぼされた。
キエフの衰退後、ルーシの政治・経済・文化の中心は、西ウクライナにあったハーリチ・ヴォルィーニ大公国へ移された。当国には、ヴォルィーニ地方、ハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方、ザカルパッチャ地方、ポリーシャ地方、キエフ地方からなっていた。大公国の基礎は、1199年にリューリク朝の嫡流の血を引くロマン大公によって築かれた。1245年にロマンの子息ダヌィーロ大公は、モンゴル帝国のジョチ・ウルスに朝貢して従属したが、カトリックのヨーロッパの支援を期待してポーランド、マゾヴィア、ハンガリー、ドイツ騎士団と密約を交わし、独立戦争を計画した。1253年にローマ教皇インノケンティウス4世から王冠を受けてルーシの初王(ルーシ王)となり、ジョチ・ウルスとの戦いに挑んだ。1256年頃、モンゴルのクレムサ軍に勝利したダヌィーロ王は、20年後にルーシの首都となるリヴィウを創建した。しかし、1259年に欧州が約束した援軍がなかったため、ダヌィーロは再びジョチ・ウルスに服属せざるを得なかった。その後、ダヌィーロの息子レーヴ1世はモンゴル軍に従ってポーランドとリトアニアへの遠征に参加した。
14世紀
1308年にダヌィーロの曾孫アンドリーとレーヴ2世はマゾヴィアとドイツ騎士団と手を組んで独立戦争を再開したが、彼らの後継者ユーリー2世は無益な戦争をやめてジョチ・ウルスに従属した。
1340年にユーリー2世の暗殺により王朝が断絶すると、隣国のポーランド王国とリトアニア大公国が王国の相続権を主張し、ハールィチ・ヴォルィーニの領土継承をめぐる戦争を開始した。1392年にポーランドはハーリチ地方、ホールム地方、ベルズ地方を併合し、そのほかの領土はリトアニア大公国のものとなった。リトアニアはルーシ語を公用語とし、正教を国教にするなど、ルーシ人に対して宥和政策をとって次第にルーシ化したが、ポーランドは新たな領土のポーランド化を進めた。
その結果、14世紀末におけるウクライナの地域は他国の支配を受け独立国としての地位を失った。リトアニアはキエフ地方、チェルニーヒウ地方、ヴォルィーニ地方を中心とする北部・中部を確保した。ポーランドはハーリチ地方とポジーリャ地方からなる西部を統治した。
近代
15世紀
南部は、1447年にジョチ・ウルスから独立したクリミア汗国が支配するようになった。無人だった東部は次第にモスクワ大公国(のちのロシア)の領域に入った。
15世紀後半、リトアニア・ロシア・クリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、コサックという武人の共同体が成立した。
16世紀
1569年にポーランドとリトアニアがポーランド・リトアニア共和国という連合国家を形成したことにより、ウクライナの北部と中部はポーランド領となった。ウクライナではルーシ県、ポジーリャ県、ヴォルィーニ県、ブラーツラウ県、ベールズ県、キエフ県というポーランドの行政単位に設置され、1598年にブレスト合同により正教会は禁じられた。
16世紀にコサックは、ザポロージャのシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争(1558年 ‐ 1583年)、ロシア・ポーランド戦争(1605年 ‐ 1618年)、ポーランド・オスマン戦争(1620年 ‐ 1621年)、スモレンスク戦争(1632年 ‐ 1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァ、クリミア、ロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに、コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争にカトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で特に大きかったのは、コスィーンシキーの乱(1591年 ‐ 1593年)、ナルィヴァーイコの乱(1594年 – 1596年)、ジュマイロの乱(1625年)、フェドロヴィチの乱(1630年)、スリーマの乱(1635年)、パウリュークの乱(1637年)とオストリャニンの乱(1638年)であった。
17世紀
1648年、ボフダン・フメリニツキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいてフメリニツキーの乱を起こした。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した。1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはペラヤースラウ会議 (1654年)でロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人とヴィリニュス条約を結び単独和議したため、スウェーデン、トランシルヴァニアと同盟を締結した。1657年、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年にコノトプの戦いで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約(ハヂャチ条約)を結んだためにコサック長老の支持を失った。荒廃時代と呼ばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、ザポロージャという地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。1667年にこのような分割はアンドルソヴォ条約によって公認された。1672年に新たな将軍ペトロ・ドロシェンコは、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実行しようとした(トルコ・ポーランド戦争(1672-1676)、露土戦争 (1676年-1681年))が失敗し、バフチサライ条約 (1681年)がロシアとオスマン帝国の間で結ばれた。1689年にロシアとポーランド・リトアニアは永遠和平条約により最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。
18世紀
1709年に、大北方戦争の際、イヴァン・マゼーパ将軍が引率したコサックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようと図ったが、ポルタヴァの戦いに惨敗した。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を廃止する政策に乗り出した。1754年にロシアはロシア・ウクライナの関税国境を廃止し、1764年にコサック将軍の位(ヘーチマン)を廃止した。廃位させられた最後の将軍キリロ・ロズモウシキーはロシアの元帥に任じられた。1775年にロシア軍はザポロージャのシーチを破壊し、1781年にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年、ロシア国内にならってウクライナで農奴制が敷かれた。また、1783年には、ロシアは15世紀から続いていたクリミア・タタール人を中心とするイスラム国家クリミア汗国を滅ぼし、クリミア半島を併合した。
19世紀
18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義・民族主義の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。1798年に、イヴァン・コトリャレーウシキーによるコサック国家の再建を謳う叙事詩『エネイーダ』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の口語で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的ルネサンスの序幕でもあった。1806年にハルキウ大学が設立されると、ウクライナの知識人によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった。1825年頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた。ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった。
ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止するエムス法が定められた。
現代
20世紀
第一次世界大戦
第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部を巻き込んで東部戦線が形成された
1917年に2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラードでロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキエフでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会が成立した。10月革命によってロシアの臨時政府が倒され、共産党のソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発したあと、1918年1月9日にウクライナ人民共和国の独立を宣言した。同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナとドイツ、オーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した。4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した。国号は再びウクライナ人民共和国となった。しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日、ソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ社会主義ソビエト共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけて、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍・イギリス軍・ポーランド軍、ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した。
一方、オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィア・ブコビナ地方に住んでいたウクライナ人はリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス、イギリス、ルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日のリガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した。
またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され、滅亡した。
社会主義時代
1922年12月30日にウクライナ社会主義共和国は、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。
1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 – 1922年、1932年 – 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ、カナダ、イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されているが、国際連合や欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられた結果、ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった。
大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。
一方、西ウクライナはポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニ・ハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。
第二次世界大戦
1939年8月24日にソ連とドイツは不可侵条約を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年9月1日に始まったドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。続いて9月17日にソビエト連邦のポーランド侵攻が行われた。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国(SSR)に併合された。ドイツがフランスを占領したあと、1940年6月28日にソ連はルーマニアにベッサラビアと北ブゴヴィナの割譲を要求した。ルーマニアはこの要求を呑み、北ブゴヴィナとベッサラビアはウクライナSSRに併合された。その後、北ブゴヴィナと南ベッサラビアを除く地域にはモルドバSSRが設置された。1940年7月14日にソ連軍はバルト三国を占領し、1941年6月1日までにドイツ軍はバルカン半島を支配下に置いた(バルカン戦線 (第二次世界大戦))。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。
1940年12月18日、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を秘密裏に決定し、1941年6月22日にソ連へ侵略した。それに呼応してイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどはドイツ側に与して派兵など軍事的支援を行った。独ソ戦は約4年間続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人はソ連共産党の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様の支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。1941年9月19日にドイツ軍はキエフと右岸ウクライナを占領し、10月24日にハルキウと左岸ウクライナを奪い取り、1942年7月までにクリミア半島とクバーニ地方を支配下に置いた。1943年2月、ソ連軍はスターリングラード攻防戦においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月にクルスクの戦いでドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。1943年11月6日にソ連はキエフを奪還し、1944年5月にかけて右岸ウクライナとクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は西ウクライナを完全に支配下に置き、ドイツが占領するか、枢軸国に参加していた東欧・中欧諸国への侵攻を開始した。1945年5月2日にソ連はドイツの首都ベルリンを陥落させ、5月8日にドイツ側の無条件降伏により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。ソ連軍が占領した東中欧諸国ではソ連の衛星国が樹立された。
終戦後のウクライナ(ソ連時代)
第二次世界大戦においてウクライナはハリコフ攻防戦など激戦地となり、莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1,400万人とされている。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死した。バビ・ヤール大虐殺などナチス・ドイツによるホロコーストも行われ、ウクライナ系のユダヤ人やロマ人などの共同体は完全に破壊された。ソ連政府はウクライナ在住のドイツ人やクリミア・タタール人などの追放を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の赤軍にも、ドイツ側の武装親衛隊(第14SS武装擲弾兵師団)にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、独立したウクライナのために戦った。
白ロシア共和国(現・ベラルーシ)とともに、ソ連とは別に国際連合加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。1956年のハンガリー動乱や1968年のプラハの春の際は、ウクライナで威嚇のための大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃したりしている。1953年のスターリンの死後、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。
1954年、ニキータ・フルシチョフ政権により、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランド・リトアニア共和国に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。
1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。フルシチョフの非スターリン化の時代には、ウクライナ・ソビエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしレオニード・ブレジネフ政権の「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。冷戦で対立していた東西ヨーロッパ諸国が人権尊重などを謳ったヘルシンキ宣言(1975年)を受けて、1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。
ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの大粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配がなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽され続けた。
1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。ウクライナ国内にあたる地域には220万人ほどが住んでいた。事故後、汚染地域の外にスラブチッチという街が作られ、かつて原発で働いていた者たちなどを住まわせた。国際原子力機関(IAEA)と世界保健機関(WHO)によって行われた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が死んでおり、それ以外にもこの事故を原因とする癌によって4,000名ほどが死んだといわれる。
1990年に一度原発を全廃したが、1993年より原発を再び稼働させた。
ソ連はミハイル・ゴルバチョフ政権下で「ペレストロイカ」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動が起きた。1960年代ごろから民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソビエト政府によってその存在を否定され、弾圧され続けてきたウクライナ・カトリックは水面下で根強く活動を続け、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。
独立
1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称「ルフ」)が結成される。1990年1月22日(1918年の中央議会によるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」を作り上げた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。さまざまな国家の権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。
崩れ行くソ連を完全に見限り、8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。
- 民族別等のウクライナ独立賛成者の割合
賛成 | 棄権 | 反対 | |
ウクライナ人 | 68% | 26% | 6% |
ロシア人 | 55% | 28% | 17% |
その他 | 46% | 40% | 14% |
1991年以後(独立後)
1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴いソビエト最高会議の元から独立して新たな国家ウクライナとなり、独立国家共同体(ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ人民共和国の中枢機関であったウクライナ中央議会の正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。
2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第3回投票で勝利したユシチェンコが2005年1月、大統領に就任した。
2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格に合わせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(「ロシア・ウクライナガス紛争」参照)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。
2006年6月22日、ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロスが最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチの首相指名を提案。この結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。
2010年、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。
クリミア・東部紛争
2014年ウクライナ騒乱とロシアによるクリミア自治共和国の併合
2013年11月にヤヌコーヴィチ政権が欧州連合(EU)との政治・貿易協定の調印を見送ったことで、親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの野党勢力などによる反政府運動が勃発した。2014年1月後半より、抗議者の中に右派セクターなどの武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生した。2月22日にヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)にて、親露派政党の地域党と共産党を含む議会内全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任(賛成328票中地域党36票、共産党30票)と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した(2014年ウクライナ騒乱)。
親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3月1日にロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナの極右民族主義勢力からクリミア半島内のロシア語話者およびロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。ロシアは当初否定していたが、2月後半の時点から「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミア全土に進軍させており、西側メディアは国章をつけていない軍服を着てバラクラバで覆面した兵士たちを「ロシア軍部隊とみられる謎の武装集団」として報道していた(ロシアのクリミア侵攻)。このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の住民は侵略であるとして強く反発した一方、クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも少なくなく、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は3月11日にクリミア独立宣言を採択し、3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票をウクライナ国内法に違反する形で実施した。そもそも他国軍が展開する中という状況下に加え、様々な違法行為、投票率と投票結果への改竄が指摘されるも、同結果を根拠に、翌17日にウクライナからの「クリミア共和国」の独立とロシアへの編入を求める決議を採択した。ロシアのプーチン大統領は同日中にクリミア共和国の主権を承認したうえで、翌18日中にクリミアのロシアへの編入要請受諾を表明し、クリミアのアクショーノフ首相とともに編入に関する国家間条約に署名した(ロシアによるクリミアの併合)。5月12日にはドネツィク州、ルガンスク州において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。
欧米諸国や日本はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した(2014年クリミア危機)。
2014年3月以降、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州、ハルキウ州、ルハーンシク州、オデッサ州において、反政府派と政府側との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の武装勢力が州庁舎や警察機関などを占領した。その際、イゴール・ガーキンなどロシアの特殊部隊の兵の参加が複数確認されていることから、これらの衝突は一般のウクライナ国民による自発的反乱とみなすのは難しく、実際に2014年4月以降、政府側がこのようなロシアの支援を受ける武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動を伴う「反テロ作戦」を開始することとなった。以降、分離武装勢力もロシアから流入したと見なされている兵器を用いて、政府側軍用機を撃墜するなど事実上の戦争状態が続いている。なお、日本を含む欧米諸国およびウクライナは、衛星写真や各報道などを根拠に武装勢力にロシアからの兵の投入、戦闘員と兵器等武器供与の支援があるとして非難を続けているが、一方でロシアは、自国民があくまで自発的に戦闘に参加しているだけであり、ロシア連邦軍の直接侵攻は否定し続けており、両者間の意見の対立が続いている。
ポロシェンコ政権・ミンスク合意
諮問機関の最高顧問に就任したミハエル・サーカシビリ、マケイン米上院議員。サーカシビリはのちに国外追放された。
2014年6月に大統領選挙によって選ばれたペトロ・ポロシェンコが大統領に就任。以降も引き続き東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独立派(ノヴォロシア人民共和国連邦)による戦闘[73](ドンバス戦争)が続いており、一時的にウクライナ政権側と分離独立派、ロシア、ドイツ、フランスによる一時停戦案が結ばれるも、すぐに政府軍による反テロ作戦が再開され、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となっている。9月5日にはベラルーシのミンスクで、ロシア、ウクライナ、OSCE、分離独立派の代表者によって、停戦と政治解決を目指すミンスク・プロトコルに調印され(ミンスク合意)、追って9月19日には治安面解決の詳細を記したミンスク・メモランダムが調印された。以降、欧州安全保障協力機構のウクライナ特別監視ミッションが、2014年9月のミンスク合意の執行を監督することとなった。2014年10月26日のウクライナ最高議会選挙では、事実上、親欧米派が勝利したが、ミンスク合意のあとも戦闘は続き、結果として一般市民を含む死者数が2014年7月17日に発生したマレーシア航空17便撃墜事件(クラボボ村)なども含めれば5,000人以上に上るなど、欧州では旧ユーゴスラビア内戦以来の死者数を出した。
2015年2月11日、ウクライナ、ロシア、フランス、ドイツは再びミンスクでサミットを開催し、ウクライナ東部の紛争終結に向けた体制の枠組みについて再度の合意が行われた(ミンスク合意2)。
クリミア奪還への動き
2019年にウクライナの大統領に就任したウォロディミル・ゼレンスキーは2021年3月、クリミア半島の占領解除とウクライナへの再統合をめざす国家戦略を承認し、国際的な枠組み「クリミア・プラットフォーム」を発足させてクリミア奪還をめざす計画を進めている。
4.クリミア併合のかんたん図解説
5.戦争になる?ロシア・ウクライナ情勢の解説
さて、2022年2月、上記のクリミア半島の問題とはまた別の問題でウクライナ・ロシア両国間の緊張がまた高まっています。
それはなぜかというとロシアが突如としてウクライナとの国境に延べ12万人という大軍勢を展開させたことにあります。
ではなぜロシアは突如軍勢を展開したのか、戦争になるのか、戦争となればどうなるか。
その辺を解説していきたいと思います。
NATOの存在
なぜロシアは軍勢を展開させたのか。それは30年前にさかのぼります。
1991年12月、かつてのロシアに当たるソビエト連邦が崩壊しました。そのソビエト連邦には現在のウクライナを含む多数の国が含まれており、その多数の国が独立しました。
その時、ロシアに追い打ちをかけるように「NATO」(大西洋条約機構)が動きます。
NATOは、北大西洋同盟とも呼ばれ、政府間軍事同盟である。1949年4月4日に調印された北大西洋条約の執行機関です。NATOは、独立した加盟国が外部からの攻撃に対応して相互防衛に合意することで、集団防衛のシステムを構成しています。
NATOはもともと東西冷戦時代に旧ソビエトに対抗してアメリカなどがつくった軍事同盟で当初は12か国しか加盟国がいなかったNATOですが冷戦が終結し、ソビエト連邦が崩壊するとチェコやポーランドなどかつての“東側(アメリカ)陣営”が次々にNATOに加盟。さらに、旧ソビエトのバルト3国までもがNATO陣営に加わりました。
プーチン政権にとって冷戦時代、欧米と対じしたかつての超大国の勢力圏は徐々に失われ、国防上の“防衛線”がどんどん迫ってきているとして脅威を感じているのです。
ロシアはたびたびNATOに対して東方不拡大を要求してきました。にも拘わらずNATOは東方に拡大を続け旧ソ連の国々を次々にNATOに加盟させていきます。
そしてついにロシアの隣国で大国でもありロシアとの結びつきも強いウクライナまで2014年にNATO加盟を目指すことを宣言します。(これはウクライナ騒乱を経てクリミア半島をロシアに併合されたことも大いに影響してます)
これまでもNATO加盟を立ち上げては立ち消えになってを繰り返していたウクライナです2015年5月に国家安全保障国防会議において採択された 「2020年までのウクライナ国家安全保障戦略」では、NATO への加盟を追求していくこと、そしてそれが可能になるための状況を作り出していくことが確認されました。
ロシア・プーチンの立場
現在、ロシアは名目上民主主ですが実態はプーチンによる独裁政権になっています。
2000年に大統領に就任し今日まで22年間(間の4年間に腹心のメドベージェフを挟む)ロシアのトップに君臨し続けているプーチン。強いロシアを取り戻し経済も成長させて圧倒的人気を得ていたプーチンですが、近年支持率が低下しています。
上図のように近年は支持率は低下気味です。
22年間も大統領をやっていることからもわかるようにプーチンはなるだけ大統領を続けたいと思っています。
そんな中、支持率の低下は喫緊の課題なのです。
さて上図の中で一時急激に支持率が上がっている時期があります。この時なにがあったのか。
それがクリミア併合です。
2014年、かねてからのプーチンの独裁に嫌気がさしていたロシア住民が増え支持率は60%を割り込むまで低下していたプーチンですがウクライナ騒乱による混乱に乗じ、かねてより親ロシアだったウクライナのクリミア自治共和国を併合したことにより一気に支持率は一気に20%以上上昇し政権基盤の安定を確保しました。
この時の経験からプーチンは戦争は支持率を高める劇薬ということを学びました。
また別の問題として旧ソビエトの盟主・ロシアの求心力も低下も問題です。
いまやEUやNATOの一員であるバルト3国を含め、ソビエト崩壊に伴って15の国が独立しました。
このうちウクライナ以外にもジョージアやモルドバなどで欧米寄りの政権が誕生し、NATOにも接近する姿勢を示しています。
また、「ロシアの裏庭」とも呼ばれた資源豊かな中央アジアのカザフスタンやトルクメニスタンは、石油や天然ガスの輸出先として中国との結び付きを強めています。
こうした中で、ウクライナまでNATOに加入し反ロシア陣営に入られるとロシアの孤立は深まります。孤立すると国の先行きは不安定になります。国を不安定にする大統領は国民は許してはくれません。
プーチン大統領にとって特別な“兄弟国”ウクライナのNATO加盟だけは「レッドライン=越えてはならない一線」となっているのです。
実際に戦争になるのか?
結局のところ戦争になるのか、ならないのか
今の段階ではならないだろう、と言われています。
ウクライナ問題におけるロシアの政治的意思は「ウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟阻止」です。
一方、米国の政治的意思は「ロシア軍のウクライナ侵攻阻止」です。
ロシア軍がウクライナに侵攻すれば、米国はウクライナのNATO加盟を認めることになり、ロシアは自国の政治的意思を実現できないことになります。
一方、米国がウクライナのNATO加盟を認めればロシア軍のウクライナ侵攻を正当化することになり、米国は自国の政治的意思を実現できないことになります。
またNATOは実質的には軍事同盟です。集団的自衛権があるのでウクライナに侵攻すればNATO加入が控えているウクライナを見殺しには出来ません。現に2022年2月アメリカは東欧に軍を派遣しています。今侵攻してしまえばアメリカとも戦争になることになります。それはロシアとしても望むことではありません。
ウクライナ東部が奪われる?
ではこのままにらみ合いで終わるのか?そうとも言い切れません。
ロシアには策があると言われています。
それはクリミアの時と同様に独立宣言をさせて軍事介入をし、ウクライナ東部を奪うという作戦です。
ルガンスク州、ドネツク州は特に多くたびたびウクライナ軍と衝突を起こしています。
上記の図を見ればわかるようにウクライナ東部は元々ロシア系住民が多く親ロシア地域なんですね。
2006年には「ドネツク自治連邦共和国」なるものを東部地域の新ロシア派は主張主ています。
親ロシアであるウクライナからの分離主義者が主張した「ドネツク自治連邦共和国」の版図です。分離主義者とは、ロシアによって支えられている勢力です。
ここで重要なポイントは、もしこの版図が実現すれば、クリミア半島は安全に確実にロシアのものになるということです。
たとえ将来ウクライナがNATOに加盟することがあっても、この地域がロシア圏でありさえすれば、黒海から地中海へのルートは確保されます。
またロシアは東部のドネツク、ルガンスク両州に2014年4月までに住んでいた人もロシア国籍を取得する手続きを簡素にする措置を利用できるようにしています。
これにより「ロシア人に何かあれば黙ってないぞ」というスタンスをウクライナ東部にも主張することができるということです。
ロシアとウクライナの戦争は始まるとしたらいつか?
仮に戦争がはじまるとしたらいつ頃か?
それは2月20日以降であるとされています。
それはなぜかというと
・中国でのオリンピックがあるため
・ウクライナの土地が今はぬかるんでいて兵器などの運用が難しいため
中国は孤立を深めるロシアにとって数少ない友好国です(それは中国にしてもですが)。その中国のメンツをつぶすわけにはいかないんですね。
またウクライナはこの時期は土地がぬかるんでいて戦車などの運用が難しいとされています。
なので戦争が始まるとしたらオリンピッ2月20日以降と予想されます。
5.実際に戦争になればどうなるか?
仮に実際に戦争が始まればどうなるか?ということですが
ウクライナは非常に厳しい状況だと言わざるを得ません。
それはなぜかというと、ベラルーシから侵攻を行えばウクライナ首都キエフは目と鼻の先で、また3方向から侵攻を行われるからです。
何故ベラルーシなのか?
それはベラルーシは代々ロシアと友好的な国で大統領のルカシェンコはなんと1994年から28年間大統領を務めています。プーチンよりも長い年数です。「欧州最後の独裁国家」とも言われています。
そんなロシアとベラルーシは2022年1月からベラルーシにて軍事演習を行っています。
なのでロシアは現在ベラルーシから侵攻可能となっています。
そこでウクライナ東部の親ロシア地域で独立を宣言させるなり偽装のテロを起こして「ロシア人を保護」するという名目でウクライナに軍事介入するなりすればウクライナはベラルーシ、ロシア、クリミア半島と3方向をロシア陣営に囲まれていますから一気に制圧される可能性があるということです。
ただ前述のとおり2022年2月、アメリカが東欧に軍隊を派遣しましたから戦争突入へのハードルは上がっていると思います。
6.ウクライナとロシアが戦争になった際の投資
さて話は打って変わって投資家の皆さんが気になる、仮に戦争に突入した際に世界の株価はどうなると予想されているのか。
それを話したいと思います。
結論から言うと
・世界的に株価は暴落する
・インフレが加速する
・エネルギー(原油)株の上昇は限定的
・コモディティ(農作物)価格の上昇
が予想されています。一つ一つ解説します。
世界的に株価は暴落する
これは言うまでもないと思います。戦争の規模にもよりますが基本的に戦争が起きれば世界的にリスクオフ(株の投げ売り)の流れになります。まずほとんどの国の株価が暴落するでしょう
インフレが加速する
仮にロシアが戦争を起こした場合、NATOは経済制裁を行うことが予想されます。特にドイツはロシアとのガスパイプラインを停止する、と警告しています。
しかしドイツを含むNATOに加盟している国々は地球環境重視の政策をとっており火力発電所はほとんどなく、ロシアからのガスパイプラインでガスの供給を受けておりそれによる天然ガスでの発電が主軸になっていますから、ロシアへの経済制裁(ガスパイプライン)の停止は自滅への道を歩むことになるんですね。
なのでロシアへの経済制裁によりガスの供給が滞り、エネルギー不足が懸念となりただでさえ加速しているインフレがさらに加速することが予想されます。
エネルギー株の上昇は限定的
上記の理由で仮に戦争が勃発してもガスパイプの停止は出来ないと言われています。
特にドイツは原子力発電所すら削減していますから。
なのでエネルギー価格の上昇は限定的になると言われています。
とはいえエネルギー株は多少は上昇すると思います。
コモディティ(農作物)価格の上昇
前述しましたがウクライナはヨーロッパの中で屈指の農業大国です。「欧州のパンかご」とも呼ばれています。
特に世界3大穀物と呼ばれている「小麦」「トウモロコシ」「大豆」の生産量がそれぞれ5位、4位、9位と世界屈指の生産量を誇っています。
戦争が起きれば戦争が起きた土地の農業が滞ることは必定ですから世界的にコモディティの需要が高まることが予想されています。
戦争が起きた場合のおススメの株
では実際にどのような株を買えば良いか。具体的な銘柄を言うと
- iシェアーズ コモディティインデックス・ファンド(コモディティ)
- iシェアーズ グローバル エネルギーETF(エネルギー)
- SPDRゴールドシェア(金)
などのETFがおすすめです。
個別銘柄で言うとエネルギー関連銘柄ならシェブロンやエクソンモービル、天然ガス関連銘柄ならチェサピーク・エナジーやサウスウェスタン・エナジーなどがおすすめです。
また、インフレ局面では金価格の上昇が見込めますから金ETFをおススメです。
特に戦争が勃発した際は一時的な暴落局面が来ることが予想されますからその際は絶好の買い場ととらえましょう。
※あくまでも個人的な見解ですので投資は自己責任でお願いいたします
↓今回の記事の関連書籍
↓ウクライナの食品
あとがき
以上ウクライナについて調べてみた、でした。
でもこれからもこういう風にタイムリーな話題に限らず気になったことを記事にしていきたいと思いますので、皆さんの知識や役に立つことができたら幸いです。
タイムリーな話題だからちょうど良いかと思って書き始めたら思った以上に濃厚でかなりの時間がかかりました…。
それでは、また